どんな善い行いをしても果報を狙ったものだったら
公園の池のカモが仲良く泳いでます。
今日は冷たいけど、穏やかな日でした。
こんな日が続けばなぁと心から思います。
さて、どんなに善い行いをしても、それをどうだと周りに知らしめたり、
自分と意見が反する人と比較して批判したりしたら、その善行は意味のない物になってしまいます。
仏教には「無功徳」と言う言葉があり、どんな善い行いをしても果報を狙ったものだったら
その善行は意味のないであるのです。
でも「そんなきれい事だよ」と思うのも当然で、この世は資本主義でもあり対価を常に考えなければなりません。
「こだわるな」とは視点を変えれば、「すごく突き詰めなければならない」とも言えます。
しかし、我々が住む世界で一番の価値は何なのかと言うと、「継続」です。
様々な物が流行っては、廃りを繰り返し、我々は老病死に一分一秒確実に進んでいます。
そんな、無常の世で、長く続けるという事が尊いのです。
流行り廃りに目が移り、古い物が持つ意味を深く考察せず、さっさと捨てていれば
流行っているからと言う事で、始めたこともいつかはブームは過ぎるときは来るのです。
そういう人はそれをまた捨てるでしょう。
そしてまた繰り返しです。
これは「こだわるな」と言う意味を履き違えているだけで、何一つ創造出来ていません。
「でも桜の花とかパッと散っていく姿美しいじゃないですか?」と思われるかもしれませんが
花は、短い生涯を懸命に命を尽くしているから美しく、虚空に美しい花が創造されるのです。
花の開花は、命の在り方を極限まで凝縮して我々に覚しているのです。
ちょっとかじって捨てるのとは、全然違います。
従って、「こうするべきだ」「あいつはダメだ」と他を貶す時間は非常に勿体なく
揚句人と比べて、自分の優位性を説きだしたら、もう愚の骨頂です。
それが如何に正論を説いているからと言っても、それが正しいとは限らないのです。
例えば、食事をしていて、皿を放り出したり、店員さんにいちゃもん付けたりするのは論外ですが
「これはこうすべきだ」「ん?これ不味くない?」「君、正しい食べ方はねぇ……」等々
確かにマナーや美味しいまずいあるかもしれませんが、それをブーブー文句言う人が
一番のマナー違反だと思います。
それが、どんなに正論でもね。
知識を身につけたり努力する事は必要ですが、人の上に立って他を貶すための行いだったら無意味です。
何故なら、この世は空(からっぽ)であり、本来無所得なのです。
他を貶して、自分の優位性を説いている時点で、既にその人は真実を見失っています。
真実とは方便です。
他人と自分に気を取られている時点で、既に方便に錆が来ていますから
後は無常の風に煽がれてそれまでです。
そして、この無常の世で継続させて行く為には、心が穏やかでなければなりません。
他人や自分に気を取られている人が穏やかであるはずありません。
とやかく言う人は、ある意味それが仕事なのです。
方便を究竟とするものは、雑念の入る余地がありませんから、何時までも美しく
そして心は穏やかであるし、言葉も行動も穏やかであることは言うまでもありません。
その姿は疑いの余地なく「仏」なのです。