お寺の鐘はソーシャルネット?!
玄関先のカネノナル木の花が咲き出しました。
葉が硬貨に似ているのが名前の由来だそうです。
さて、今は関係性が大切な時代だと言います。
昔は関係性と言うと、地域コミニュティにほぼ限定されていたと思いますが
今はネット上で交流できるソーシャルネットという物が登場したことによって、様々なコミニュティーが登場し
共通の趣味趣向を持った人たちと交流でき関係性が保てるのです。
仏教には「縁欠不生」という言葉があり、「縁」がなければ「果」は生まれません。
従って、特に仕事をする上では、この関係性(縁)が何よりも大事になるのです。
言い換えれば忘却を如何に防ぐか?が大切になるのです。
突然ですが皆さんの地域のお寺には鐘はありますでしょうか?
残念ながら当山には鐘つき堂はありませんが、
お寺の鐘は本来は法要前に参集を知らせる為に鳴らしますが、用途はそれだけでなく
その昔一般の人は時計を持っていませんでした。
従って朝のお寺の鐘で起床をし仕事始め、夕方のお寺の鐘で仕事を止めるという、一般の人々の生活の時計代わりでした。
時間を気にする事無く仕事に没頭できますので、職人が生まれるのは当然ですね。
また、鐘の音は煩悩を打ち払い、我々を悟りに導くものであり、これを朝夕に聞き
時報としてでなく、心のモヤモヤをも晴らしていたのでしょう。
つまり、和歌や童話にも「お寺の鐘」というフレーズが出てくるようにお寺の鐘の響きが、地域の方々の生活に
溶け込んでいて、関係性を築く役目も担っていたのです。
ある意味ソーシャルネットですね。
お寺で大事な物はと申しますと、「縁」の一言です。
それがあって本堂や仏像が維持でき、成り立っていくのです。
お寺の活動を見ていると、人との関係性を重んじている物ばかりです。
例えば、お寺の山門の伝道板はお寺の活動をお知らせするものです。
お店で言うと店頭に置かれたブラックボードに書かれた、メニュー表みたいなものですよね。
あれがあるだけで、前を歩いている人に手渡しでチラシを渡しているだけの効果があるそうです。
寺報は今で言うニュースレターやメルマガですね。
写経会や御詠歌講等や、そもそも僧侶の意味の「サンガ」は、人が集まるコミニュティですね。
仏様とはこの世の真理を体現された方であり、そして三宝(仏法僧)の僧はそれを信じて行う人であります。
この世は言うまでもなく無常で、嘘空の世界であります。
この世は「思いやりだ」と言いますが、片面では「価値と価値との交換」と言う
シビアな一面も持ち合わせているのです。
残酷ですが「忘れられたらそれでお終い」という事なのです。
従って、我々は忘却との戦いであり、関係性を如何に保つかに、懸命になるのは当然なのです。
梵鐘の音は僧侶の参集を促す物でありますがそれだけだったら、ある意味自己満足であります。
そうした物が、この無常の世に残っていくはずがありません。
「どうやったら自分たちの方便が人のお役に立てるのか?」と徹底的に空じて、それを究竟としなければなりません。
仏道と申しますと、ただ単に座禅して静かにしていればいいというイメージを持たれている人も多いですが
ありえません。
もちろんそれは大切な事ですが、それだけだったら、無常の波の飲み込まれてお終いです。
徹底的空じて、何がお役に立てるかと謙虚に行動し続ける事こそが仏道なのです。
空じて自分がすべきこと、出来る事を究竟とすることがまずは大切になるのです。
好きな事は土台を作ってから、余裕をもって楽しめばいいのです。