住職の日記

誰の眼を基準にすべきか

誰の眼を基準にすべきか

ご近所さんから綿の木を頂きました。

白い綿と、茶色い綿があります。

暖かそうです。

さて、例えばあなたかがそうですねぇ焼き鳥屋さんの大将だったとします。

あなたは、美味しい焼き鳥を提供したくて、新鮮なお肉を、丁寧に焼いてお客さんに提供していました。

そこであるお客さんが「大将さぁ、美味しんだけど、もう少し安くしてくんない?」と声を掛けられました。

「そうか」といい、焼き鳥の値段を下げました。

単価を下げるとなると、客数を増やさなければなりませんし、料理にそんなに手間もかけられません。

するとまたお客さんから「あのさぁ、肉前よりも悪くなったよ、どうにかならない?」

と声を頂きました。

「そうか…。」

また、値上げして、質を上げるのか?それともお値段据え置きで質を上げるのか?

「お客さんの為に、辛抱しよう」という事で、お値段据え置きで、また質を上げました。

そしたら、無理がたたり体調を壊し、お店を閉めてしまいました。

この一連の流れで、どこに問題がありますかわかりますか?

お客さんのクレームだとと思いになるかもしれませんが、実はそうではなく大将自身にあるのです。

大概の物事の問題は外面ではなく内面にあるのです。

ずばり、「質はいいよ、高いけど」と「安いけど、質はそこまでだよ」

と意思表示をすべきだと思います。

そうすれば、その価値に共鳴した人が寄ってくるだけの話で、あっちもこっちも

言う事なんか聞いていたら、しわ寄せが自分に来ます。

勿論、傲慢になれって事ではありません。

ただ、片方の視点でしか見ない人の言葉なんていちいち聞いてたら、シーソーが

ガタンガタンと揺れ動くように、一向に安定しません。

昔お釈迦様が、人から噂されて悩んでいる青年に

「しゃべらなければ、全くしゃべらないと言われ たくさんしゃべれば、あいつはうるさいと悪口を言う。 

この世に悪く言われない人はいないのだよ。」

と言われたそうです。

そんなフワフワいい加減な目を基準とするのではなく、法を基準として生きよという事です。

凡夫が善いと言っても、仏さんの眼から見たら本当に善いのか?

凡夫が悪いと言っているが仏さんの眼から見たら本当に悪い事なのか?

判断は法を下に行う事が大切なのです。

ある片っぽの視点だけにたった発言など、実にくだらないのです。

仏の眼で物事を見つめれば、必ず善い部分も生まれ、その反対に影も落とします。

後は、その善い部分を享受し、影の部分のリスクは全部飲むと言う覚悟が必要なのです。

その覚悟がなければ、ブランブラン揺れ動き、遂には自分に無理がたたります。

天才将棋棋士の羽生さんの座右の銘は「運命は勇者に微笑む」だそうです。

勇気を出し決断しましょう。

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