住職の日記

草鞋

気づけば秋に。

もう10月に入りました。

急に涼しくなって来ましたので、どうか体調崩されないようにしてください。

さて、「人生は旅だ」と例えられるますが、本当にそのとおりだと思います。

「旅」とはここではないどこへ行くという意味を持ちますが

それは何も、本当に移動し続けるだけのことを意味しているわけではないと思います。

私は、一年の殆どをここ地蔵寺にいますが、一日とて同じ日はありません。

春、あれだけ青々とした葉が、こうした秋に枯れ落ち、景色は全く別のものとなります。

そして、自分も一日一日確実に老いていきます。

…全く同じ日などないのです。

つまり、気づいていないだけで、我々は嫌がもうでも旅人なのです。

旅していない人なんていないのです。

それは、地球は周り太陽も周り、というように、常にすべての物が動いているのです。

そして、その動きの中に、御仏の命の働きがあるのです。

だから、こんな世の中で、「有る」という意識が、その旅を邪魔をして

苦しいものとするのです。

人生つまんないから、ここではないどこかへ旅へ行きその先で見つける、

つまりその旅の先に「有る」と思うと旅していても、目的を探し出しますから

つまり求め出しますから、旅に出ようと留まろうと苦しいまんまです。

旅にはもともと目的はなく、それは人生も同じくだと思います。

そうではなく、旅の先にではなく、旅の中に醍醐味が有るのだと思うのです。

つまり、旅人と言うのは、そうした常識とか、善悪とかに囚われない生き方をする人でしょうね。

生き「方」ってこれからものすごく大切だと思うのですね。

なぜなら、物はあるし、食べ物はあるし、などなど既に出揃っていて

それが生きる原動力にはなりにくい時代な何じゃないかなと思うのです。

貧困の時代からしたら、なんて贅沢なと思われるかもしれませんが

実際感じられないから、そうなんです。

したがって、自分らしい生き「方」を求める時代で

その方便の中に物やお金がどれだけ必要なのか?ということでしょう。

その方便が大きければ、それだけのお金や道具が必要となり

小さければ、それほど必要はないですよね。

物やお金に本当の満足を感じられないということは、実はそこに

命の輝きは「今の」時代は少ないからです。

この秋はお遍路さんのシーズンですが、納経帳が真っ赤の方が多いです。

つまり、くるくる何回も回っているのですが、それは本能的にその動きの中に

本質が有るのだと気づいているのだからと思うのです。

旅人とは、別の言い方をすれば、悟りの人とも言え

仏教とはその旅を快適にさせてくれる草鞋ではないでしょうか?

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