住職の日記

老松は冬も元気です

周りは葉が落ち寂しくなりましたが、老松は冬でも変わらず青々としています。

「冬嶺孤松秀 とうれいこしょうをひいず」という禅語がありますが

冬の峰の上で、周りの草や木が枯れていくのに、松はぽつんと独り青々と緑を誇っているという意味です。

我々はどうしても周りの人の考え方や環境に左右され、自分の本来の姿を見失ってしまいます。

それによって、修行を続けられなくなり、苦難を乗り越えられないのです。

ですから、「しっかりとした自分を持ちましょう」となりますが

しっかりとした自分とは自己中心的になるということではないのです。

そもそも自分って何なのか?それに気づかなければ、単なる執着になります。

つまり、自分って存在は何で存在できているの?という縁起の法則に気づくことが

大切になるのです。

自分の存在している縁を辿って行くと、まず父母、祖父祖母、ご先祖様、、

そうした方々の命のリレーがあって自分にそのバトンが渡ってきたとわかりますね。

ご先祖様に感謝する父母に感謝するということは、そういうことです。

そして、地域の人々や日本の為に尽力してくださる方々がいて、そして

我々がこうして生きているのは様々な命の犠牲の上で成り立っているので

そうした命によって成り立ち、そして何より我々に命の故郷である仏様のおかげであります。

そのような、自分の成り立ちをたどっていくと、自分は生かされているんだんぁと

感じるはずです。

…自ずと「すべきこと」はできるかどうかは別として浮かび上がってきますね。

ですから、周りの環境や情報に流されて自分を見失う場合、ありもしない「自分」という存在に

囚われ、自分のすべき事を見失っているということになるのでしょう。

自分の存在は様々な供養によって出来ている、生かされているという自覚を

常に持ちたいですよね。つまり今すべきことは常にあるということでしょう。

もちろん、できるかどうかは別として。

この冬の青空に映える松はそうした強い謙虚な生き方を表しているように思います。

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