住職の日記

美しい日本語

美しい日本語

目に染みるような新緑。

この雲一つない空との調和が最高です。

もう夏ですねぇ。

さて、日本語というのは本当に不思議なもので、固有名詞を称呼する際に「お」や「さん」

をつけます。

日本は目上の人を敬うという文化がありますが、人だけに限らず

「お日さま」「お月さま」「お星さま」「お空」や「お四国」と言った地名にも

または「〇〇寺さん」と言ったお寺にもつけます。

人でなくても、こうして「お」や「さん、様」をつけて呼称することは

海外の方から見たら大変不思議に思うそうです。

しかし、こうした何にでも敬いの心をかけれる心というのは本当に素晴らしいと思うのです。

そして、そうした文化はどうして生まれたのか?

それは間違いなく仏教のお陰であると思うのです。

仏教には「相互供養」という言葉があり、互いに供養し合う事を言います。

どちらか一方的に敬われるのではなく、「互いに」というところがポイントであります。

そこには、もちろん年の上下という区別はなければいけないのですが、差別はありません。

従って、どんな間柄にも上とか下は関係なく、互いに思いをかけれるのでそこには豊かな世界が広がります。

その姿こそ、曼荼羅であり、仏の世界であるのです。

しかし、今日の日本は明治維新後、ある意味国教であった仏教が剥がされ、そうした思想というのが

徐々に薄まってきたのも事実です。

もちろん、幕府の下の寺院は怠慢だったという指摘はありますが、仏教が民衆に浸透していき

謙虚な人格を形成していたのは間違いないと思います。

例えば「これはつまらないものですが…」と言って相手に土産を渡します。

他にも「粗品」「粗茶」「粗宴」などなど

見方によっては、へりくだり過ぎなのでは?と思われるぐらい、謙虚ですよね。

しかし、互いに思いあうという事は、謙虚でなければなりません。

つまり、「我々人間は罪深い生き物なんだよ」という懺悔の戒めの心がそうさせているのです。

しかし、だからこそ謙虚にできて、相手を敬うことが出来るのです。

ただ、現実にはそうした仏教が国の第一線に立つことは中々難しいかも知れません。

ですが、そうした種はあちらこちらに落ちていると思います。

例えばこの「日本語」もそうですね。

その日本語の中に「相互供養」という仏教の精神が含まれていて、その言葉を大切にすることは

すなわち仏教を後の世に伝えていくことが出来るのです。

しかし、時代はグローバル化により、すでに様々な面でその影響は出ているに思います。

企業によっては英語が公用語になっている事もあります。

もちろん、そうした言語のグローバル化はそれで大切なのですが、そうした美しい日本語の文化は

大切にしたままグローバル化の波に乗って行ってほしいと思います。

いちばん上に戻る