住職の日記

精進することが最高の幸福なのは…

精進することが最高の幸福なのは…

今日から七月です。

梅雨に入っていると思えないほどの天気です。

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。

報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって

継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

<将棋棋士 羽生善治>

我々の努力のそのほとんどは報われない事ばかりです。

しかし、だからこそ努力を継続させることに価値があるのです。

結果が保証をされていない状態で、自分を信じその道をただ単にヒタヒタと歩み続ける事を「精進」と言います。

「精進」出来るか?出来ないか?ここで大きな差が生まれます。

「これやったらどうなるの?」「何得られるのか?」と打算で動く人はそれまでです。

善い悪いではなく、おそらく何してもつまらないでしょうし、結果何も残りません。

結果が全てという風潮がありますが、その過程も同じくらい大切にしなければなりません。

結果がどうであれ、それまでの道のりをどのように歩んだか?

もし悪ければどのようにするべきか、問題点を探しそれを修正することが大切になります。

例え、悪い結果がでても経験が積まれ、いずれ本当に大事な場面に遭遇した際、良い決断が出来るようになるのです。

でも、「それでも結果に結びつかなければ意味ないじゃん」と思われるかもしれませんが、本当の意味はそこにはないのです。

果は縁と因の和合によって生まれています。

結果を出したければ、その過程を大事にしなければどうにもなりません。

これは真理です。

それなのに果だけを急いで望んでも、まったく過程を無視しているようでは実るものも実りません。

それこそ結果が全てなのです。

悪い結果が出ているときは、それまでの過程に問題があるからそうなっているのです。

つまり結果だけ見て行動している人は過程を度外視して行動しているので、いつまでたっても果に結びつかないのです。

大方、「意味ねーじゃん」と止める事が殆どだと思いますが。

「なら結果を保証したら精進できるんじゃない?」という話になるでしょうか、果たしてそうでしょうか?

先程も申しました通り、大事な事は果になく全ては過程にあるのです。

その過程にその人が得た経験から花が咲くので、花が咲くから努力することは、手段であって精進とは言えません。

そういう場合は、その目的が満たされたら、努力しなくなるでしょう。

そうなれば、「こんなもんだろう」とまるで自分が何かを達成したかのような錯覚を起こし、再び迷いの森に迷い込むのです。

いい結果が欲しいのなら、その道を精進することが大切になります。

そして何より楽しむ事です。

その行動その物を楽しめるようになれたら、命がある限り楽しめます。

嫌々行っている人と、それ自体を楽しんでいる人では、時間で圧倒的な差がでますし、質も違ってきます。

好きや楽しいに敵う者はありません。

我々人間の目的は幸せになることです。

つまり、精進する事を見つける事が、最高の幸福と言えるのです。

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