真実はそこじゃない
こんばんは。
今日は一日天気悪かったですね。
しかし、春の匂いを僅かですが感じました。
さて、インターネットの浸透により、様々な物が明らかになる時代です。
でも、こんなものまで明らかになるのかという時代でもあります。
例えば手品。
手品と言えば「種」ですよね。
私も手品が好きなんですが、これがもうほとんどの手品と言っても過言ではないほど、ネットで紹介されています。
これがいいか?悪いか?ではなく、ネットにおいては、もう種という種は明らかになってしまうのです。
でも、不思議なことに手品に対しての関心はなくなることなく、むしろもっと親しみやすくなったんではないかとさえ印象を受けます。
そこで、忘れてはならないのは、この世は仏さんの世界です。
つまり道なのです。
という事は、手品で重要なのは種の現象で人を驚かすという事ではなく、人を楽しませる場を作るという事です。
重要なのは種ではありません。
前も申しました通り、もう技術だけでは人との関係性は作れません。
一般に売られている、PCソフトや道具の精度は年々増すばかりです。
結果「個人」というものが重要になる時代なのです。
つまり、建前は○○さんのマジックショーかもしれませんが、実際は○○さんショーなのです。
手品の種で魅了されているのではなく、その人の話し方、お客さんを楽しませる心、その場の雰囲気に我々は魅了されているのです。
それはどんなけ技術があっても、真似出来ません。
手品の中には、技術がなくても、誰でもできる種の物もあります。
では素人の方と、手品の道20年のベテランの方が、その同じ簡単な種のマジックをやったら、同じになるのか?
答えは違う手品になります、種は一緒でもまるで違う。
ただ手品の現象を披露したところで、誰も楽しませることは出来ません。
真実はそこになく、それまでの道(過程)になあるのですから。
真実の光は道(過程)にあったのです。