住職の日記

無限に湧いてくる物を相手にするのではなく…

無限に湧いてくる物を相手にするのではなく…

青い空とハナミズキはよく合います。

もう初夏ですね。

こんな季節はどこか出かけたくなりますね。

と思いきやもうすぐゴールデンウィークです。

どうか有意義な連休をお過ごしください。

さて、こんな美しい空とは裏腹に、この世はお釈迦様の言葉「一切皆苦」という様に

嫌なこともある苦しみに満ちた世界であります。

愛するものと別れや、憎しみ合う人と合わなければいけない、欲しいものが手に入らないなど

いろんな苦しみに満ちています。

我々は、その苦しみの解決にあの手この手を使い、紛らわしたりしますが

殆どが、一時的にしのげるだけで、解決には至らないのです。

その原因となっているのが言うまでもなく、煩悩による自身への執着であります。

つまり、その執着を無くなれば苦しみは晴れるのです。

と言うと、すべての元凶である煩悩を無くせばいいということになりますが

煩悩はまるで雑草のように、抜いても抜いても生えてきます。

じゃあ塩を撒いて枯らしてしまおうと、塩を撒けば、それこそぺんぺん草も

生えないような土壌になっていまい、花も一緒に枯らすのです。

ですので、煩悩と格闘することは無量の時間がかかり、それで一生を使い果たしてしまいます。

その、苦しんでいる姿は、とてもではなりませんが穏やかでなく、人に安心を与えません。

自他共にためにならないのです。

そこで、もう一つの原因である自分への執着を無くすという事に決着になるのです。

自分を無くす、無我の境地になるのです。

無我の境地と言うと、「とてもじゃありません」「そんな厳しいこと出来ません」となりますが

真の無我の境地は苦痛や苦行の上に成り立つわけではないのです。

無我の境地ってどんなことかというと、平たく言うと、自身の事を考える時間がないくらい

人のために尽くし生きて行くということです。

我々は自身が何かの役に立ったり、認めてもらう事で、心の充足が得られるのです。

しかし、いくら人に役立つ行為とはいえ、それが自分が好きでなければ

継続出来ません。

好きなことは、人に強制されなくても、無意識の内に行っているものです。

つまり、苦しくはなく、苦しくはないというか、自分の好きの為なら

苦は苦でなくなるのです。

例えば、自分の好きな店や場所に行く際に、どんなに遠くても、その距離は苦でないのです。

逆に嫌なことだったら、近くても苦しいのです、ましてや遠ければ地獄そのものです。

よって好きでなければ、継続出来ず、継続できなければ結果は生まれません。

ですが、どんな好きな道でも、やはりエネルギーは入ります。

自分がこうだと一歩踏み出しても、周りは反対の視点だけにたちやいのやいのやじを入れて来ますし

中々結果に結びつかないこともあります。

そうした、状況を突き抜けるために「煩悩」が必要になるのです。

煩悩は怖いものでもありますが、それは我々がそう見ているだけで、視点を変えれば大切な燃料です。

その燃料の使い方さえ間違わなければ素晴らしい生命エネルギーになるのです。

ということで、そこの煩悩と何を結わすかが大切になるのです。

それが、自身だけの為の物なら、間違いなくすぐ途絶えるか、自他共に災厄の火の粉を被るだけです。

では、何の動機をその煩悩と結わせば、正しいエネルギーになるのかというと

「慈悲心」です。

「多くの人を救いたい」「多くの人の役に立ちたい」という、他を思う心です。

そうすれば、煩悩がエネルギーになり困難な状況を突き抜けていけるのです。

我々の真実は方便であります。

それを究竟とするには、まず好きでなければなりません。

そして、今物や情報が隅々まで行き渡った時代ですので、より好きなことに没頭しやすい

時代になったとも言えます。

その方便を究竟とすれば、自身への執着を離れ、本来の姿に戻り、命が輝くのです。

もちろん「好きなことだけ」出来る人は少ないと思いますが、「今すべきこと」と

それを混ぜることにより、相乗効果になり、どちらも隆昌していくのです。

無くしても無くしても、無限に湧いてくる煩悩を切り取る事に時間を割くなら

好きなことをして、煩悩を慈悲心と結合させて、生命エネルギーに転換し

その行為に没頭し、無我の境地へ行きましょう。

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