住職の日記

本当に明日も咲いている?

本当に明日も咲いている?

紫陽花の花が大きくなりだし、色も徐々についていきました。

これから梅雨に入りますので、「雨×紫陽花」の掛けあわせが楽しみです。

「雨」だけ、または「紫陽花」だけと、確かにそれぞれに価値は大有りですが

それが、掛けあわせるだけで、すばらしい情緒を醸し出します。

雨は大切なモノですが、我々人間からしたら、あいにくの雨でもあるのです。

それが続き出したら、それはどんよりしてきますよね?

しかし、こうして紫陽花を楽しめたら、そうした落ち込んだ気持ちにも日が差し

心の雲も少しは晴れるのではないでしょうか?

さて、我々の心は「本来」青い空のように澄み切っていて、清らかなのです。

しかし、生きているとどうしても、執着が働き、妄執の雲が覆ってしまい

本来の姿を見失うのです。

そして「我々は幸せになりたい」と今の世界を穢土とし、遠くに存在している「楽園」を

目指そうとします。

しかし、厳密にはすでに幸せであり、それに気づけてないだけなのです。

従って、そうした楽園と言うのは恐らく自分が思う都合のいい世界となるのでしょうが

もちろん、そうした世界を思い描き、その世界に浸ることも大切ですが

現実には我々が生きているのはこの一瞬であり、未来でも過去でも無いのです。

ただ、そうした現実には生老病死の苦が渦巻いていて、その苦からは何人も逃れることが出来ないのです。

ましてや我執を帯びた状態で、その苦の渦に飛び込もうものなら、即転覆はすることは

当然とも言えます。

従って、そうした苦が渦巻く世界と如何に向き合っていくかが大切になるのです。

そこで、助け舟となるのは、仏法となるのです。

皆さんも御存知の通り、仏教は虚空を説きます。

つまり、本来なんにもない、空っぽだよ、ということです。

もちろん、それには自分も大切な家族も含まれております。

そうした、無いものをあると思うのだから、苦しみが生じるのは当然ですね。

ただ、誤解を招くかもしれないので、疎かにしろということではありません。

その反対で大切にしなければなりません。

親鸞上人のお言葉に、少し季節外れですが「明日ありと思う心の仇桜

(あすありとおもうこころのあだざくら)」とあります。

正にこの言葉は真理をついた言葉であり、それは目覚めの言葉と言えましょう。

やっと桜が咲いたと思っても、夜に少し風が吹けば散っていきます。

それと一緒で、我々も誰も明日を確約されている者は誰一人居ないということです。

こうした真理の言葉は、「空気が重くなる」と遠ざけたくなりますが

遠ざけて、無いものを有ると狂に生きる事は、大変不幸な事でなるのです。

そして、そうした言葉を真摯に受け止めると、確実に得る物があるのです。

虚空の世界に「得る」とは矛盾しておりますが、それは「今を生きる」ということです。

それこそが、我々人間の突き詰めた「幸せ」であり、正に虚空に冥合しているのです。

今こうして生きることの喜び、家族と過ごすこの一瞬が、かけがえのない幸福なのです。

虚空を自覚すれば、今を生きる力が湧き出し、苦しみそのものは無くなりはしませんが

苦しみの渦を度(ど)すことが出来るのです。

生きるのは過去でも未来でもなく今この一瞬。

そうした事実にすべての人が目覚めた時、この世は仏国となるのです。

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