住職の日記

末法が理由にならない

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公園を散歩中、白い山茶花が一輪咲いていました。

こうした木々が鬱蒼とした場所に白い花がポツンと映えますね。

…周りがどんなに今は不幸だ、何だと言っても、こうして花を咲かしている人もいます。

今は末法だからという理由で修行をやめる理由にはならないのです。

周りがやらないから、組織全体がやらないから、やらない。

じゃあ、みんながやっているからやるという修行が本当の修行なのでしょうか?

そうではないですよね。

周りがどうのこうのとか、ではなく「自分がしたいからする」でなければなりませんよね。

もちろん、行いは他人から変な目で見られると言うリスクはあります。時には批判も。

しかし、それらを飲み込んでもやっていきたいと思える行いかどうか自覚することが

大切なのでしょう。

周りがやっているからやる、今流行っているからやる。

確かに批判も少なそうで、何かをすぐに得られそうですね。

ですが、時間とともにその行いはしなくなりそうですね。

だからすぐ迷う。

また、周りにやっている人はいない、「末法」だと嘆く。

人はそうやって迷い続け、迷いの世界に輪廻し続けるのですね。

ですから、リスクを踏まえた上でも、自分が「これだ!」と思うことを行うことが大切になるのです。

…例え時代が正法(釈迦が説いた正しい教えが世に広まり、修行して悟る人がいる時代)でも

その悟りを開いた人の真似だけをしても、悟れるかどうかは別なのです。

何故なら、「その人」はそれで悟れたけれども、自分はどうかわからないのです。

つまり、中道はそれぞれ違うのですから。

そして、その正解を知っているのも実は自分だけなのです。

正法であっても、末法であっても、悟れる人は悟るし、悟らない人は悟らないのです。

ですから、周りの目線、何かを失うリスク、それらを受けてでもしたい行いが見つけ

芽生えたならば、無常の波を受けない不退の地へとたどり着く事ができるのでしょう。

何かを理由にやめてしまう行いはそれまでで、本当はしたくないのです。

本当にしたければ、誰が何を言おうと、それこそ、なにかと理由をつけて

行っているはずです。

それこそが、悟りの道への第一歩でしょう。

鬱蒼とした森にホンワリ浮かぶ白い山茶花の花を見て思った次第であります。

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