意外とロックされている…
今日夕方、夕日が綺麗だったので、車を止めて取りました。
ちょうど隣村の北粕谷の八社神社の前あたりです。
このこんもりした丘の上に地蔵寺があります。
こう見ると、結構高い丘の上にありますね。
昔地蔵寺の前の坂の下は海だったそうで、この目の前に広がる
田園風景は海だったと思われます。
ちょうど地蔵寺の南に流れる矢田川がもっと昔が大きく
運河になっていて、そこから大野庄の北と南に物資が運ばれていたそうです。
それで、織田長益(有楽斎)が、川から運びやすい
地蔵寺の南西にある大草城に、大野城から拠点を移動しようとしたと
言われています。
何時の時代でも、利便さは大切ですね。
さて、当山はたまに先祖供養の依頼があるのですが、と言うのは
実家は県外にあり、お墓はそこにあるのですけど中々帰省できず
お墓参りの代わりに、先祖供養をされるのです。
皆さん「中々戻れないので、ご先祖様に申し訳ない…」と仰られるのですが
「仏様の世界は決して遠くにあるのではなくて、我々の心の中
そして極めて近い場所にあるのです。
ですから、例え今住んでいる場所がお墓から離れていても
一心にお祈りすれば、ご先祖様や亡きご家族と、瞬時に寄り添うことができ
互いに思いを寄せ合うことができるのです。
ですから、ご先祖様も亡きご家族も大変喜ばれていると思いますよ」
とお話させていただくのですが、皆さん「そうなんですかぁ」と大変驚かれると
同時に「ホッと」安堵され喜ばれるのです。
もちろん、その場に行って、供養することも良いことですが、時代の変動ともに
今は昔のように、同じ場所に留まるという事が、少なくなっていき
これからは、グローバル化に伴い、それが世界レベルで行われるかもしれないのです。
ですから、お墓参りというのも、状況が更に変わっていくと思われます。
ですから、仏様の世界は「此処にある」「西の遥か彼方遠くにある」ではなく
ここにも、そこにもはるか遠くにも、どこにでも浄土(仏の世界)は本来あって
つまり、「それをの感じる心」の中に有るのだという、柔軟な考えの方が
これからの時代良いかもしれませんね。
そして、思ったのが、非常に多くの方が「○○なければならない」と思考がロックされていることです。
それは、「今まではこうしてきたから、こうでなければならない」という習慣に縛られているのですが
それはそうしてきたということだけであっただけで、それでなければダメということではないのです。
もちろん、それがいいのなら、それでいいのですが。
重要なのは、遠くにいても、近くにいても心から供養したいという気持ちなのです。
その気持ちがあれば、距離とか時間など関係ないのです。
近くにお墓があっても行かない人は行かないのです。
それだったら、遠く離れた場所からでも、一心に祈りを捧げる方が、より近いように思います。
…携帯電話もシムロックフリーがなされた時代、我々の心のロックも外し
どこにいても穏やかに祈れる時間や場を設け、こうしたグローバルな社会を過ごしましょう。
繰り返しになりますが、重要なのは、場所ではなく、供養したいという心なのです。
その一心に祈る心から、極楽浄土が広がり、そこが浄土と化すのです