住職の日記

情熱と諦め

情熱と諦め

お彼岸の象徴でもある曼珠沙華も終わっていきます。

そういえば、曼珠沙華は花は散らず、細くなり溶けていくように朽ちていくのですね。

人は無常の風に仰がれ、老いていき、いつかは今している何かを止めていく事になると思いますが

「散り際の美学」というように、その去り際への考え方は人それぞれだと思います。

桜の花のように、まだ美しいのに華々しく散っていく、儚さも良いですし

こうして、彼岸花の様に、最後まで決して散らずに、雨に打たれ自然に朽ちていく

事もいいですね。

ですが、人はそうも簡単に割り切れ、受け入れる事も苦手なはずです。

こうして、萎れていく彼岸花を見ていると、どんなに年老いていても

抱いていたい思いって必要だよなぁ、と感じますね。

なんて言っても、「得難い一生そして、一度きりの人生です」ので

どうせだったら、命あるかぎり、何か心に秘めた思いは持ちたいですね。

ただ、桜の花の散り様を見て、「さっさと諦めてやめる」と誤解されがちですが

そうではありませんよね、桜の花は自分の命がそうであるのを

あるがままに、全うしているだけであって

それを、変に解釈して、嫌だからさっさと止めるというのは単に我がままなだけでしょう。

彼岸花の花言葉はいくつもありますが、その中に「情熱」とあります。

…今も高野の山奥で、弘法様は修行を続けておられます。

その1200年以上自身を修行に駆り立てる動機は、我々を一人残らず御仏の世界へ連れて行く

という情熱以外なにものでもないでしょう。

ですが、情熱もいいですが曼珠沙華の別の花言葉に「あきらめ」とありますように、

諦める事も大切です。

年老いて、体が動かなくなれば、諦めて、譲り、自身のできることを朽ちるまでしていく。

諦めるとは、全てをあるがままに受け入れるということです。

などなど、この彼岸花は色々な事を教えてくれます。

花が綺麗な時だけ、目を向けるのではなく、こうした散り際も大切な「何か」を

御仏は我々に諭しているのです。

我々も、こうして、萎れながらも、散らずにいる彼岸花のように熱い情熱(思い)と

物事を素直に諦めれる冷静さを持ち続けたいですね。

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