住職の日記

徳川のお寺

徳川のお寺

二日目は徳川家ゆかりの増上寺に案内して頂きました。

増上寺は言わずとも、徳川家の菩提寺であり浄土宗の大本山であります。

徳川家康は熱心な念仏者でもあり、増上寺は昔はもう少し違う場所にあったのですが

入府を受け江戸城拡張と共に今の地に移されたそうです。

その後は、徳川家の菩提寺になり、一時は三千もの僧侶が居たそうです。

そして、何と檀家は徳川家のみであり、他には全く檀家のない、正に徳川家を供養する為のお寺だったそうです。

第二次世界大戦時にこの辺りは空襲に遭い、伽藍は殆ど消失してしまいましたが

この朱塗りの三解脱門と、写真を撮り忘れたのですが、土蔵の経蔵堂だけは辛うじて残り

歴史を感じる建物はこの二つだけで、あとの建物は戦後に建てられたものだそうです。

この朱塗りの意味は、遠くでも目立つように塗られたそうです。

また、当時は殆ど一般の方は殆ど近づく事がなく、本来ならこの先の大門まで寺領があったのですが

一般の人々は山門から拝むという程で、位の高いお寺であり、それ程徳川家というのは大きな存在だったのでしょう。

正に徳川家の為のお寺です。

残念ながら、経蔵の写真は忘れてしまったのですが、中には大変貴重な輪蔵という(詳しくはこちら

中には家康公が納めた大蔵経が入っており、参加者の方で特別にクルクル回させて頂きました。

皆さん、軽快に回る輪蔵に感動しておりました。

朱塗りの木造作りの豪華絢爛な造りの経蔵で、全く油も差す事無く、今も軽快に回せる構造は今も

はっきりとわかっていないそうです。

当時の技術としては、凄い事でしょう。

「後ろの鉄塔は何ですか?」と思わず聞いてしまいましたが、後ろの鉄塔は東京タワーです。

この本堂(大殿)と後ろの東京タワーの重なりが、今らしいです。

大伽藍です。

お祀りされている方は阿弥陀如来様で、冒頭でも申しました様に家康公は熱心な念仏者であり

戦にも阿弥陀如来を持参くらいで、別堂の安国殿には、黒本尊と言われる勝ち運のご利益のある

阿弥陀様が祀られていました。

それくらい熱心だったのですね。

江戸時代までは、ここら一帯は増上寺の寺領で、明治以降に今の範囲まで狭められたそうです。

その威光は計り知れません。

その後、子育千躰地蔵の横を通り、我々は徳川家の御廟に案内して頂きました。

中には、徳川家の代々のお墓が祀られていて、昔は木造作りの豪華な御廟であったのですが

空襲や火災に見舞われて、今の範囲まで狭められたそうです。

また、初代の家康公の東照宮は、神仏分離令と共に、別の場所へ移動されたそうです。

先日の靖国神社は明治以降に出来た神社ですが、この増上寺は明治を区切りに

唯一の檀家の徳川家の擁護が無くなったり、戦争で空襲に遭いと時代の変革の波を受けながら

お寺を存続させて行く事は並大抵の努力ではなかったと思います。

しかし、家康公も大変苦労された方だったので、そのDNAが受け継がれているのかそうした苦難にも負けずに

今も進化しつつある町と共存そして繁栄を続けています。

前日の靖国とこの増上寺は幕末、明治維新、そして昭和の戦争と、変化に伴い沢山の方が傷つき

悲しむ時代に立場が違えども、人々の拠り所となって正に皆を支える柱となってきたのですね。

この東京の中心部には江戸、そして明治大正昭和と時代を支えてきた方々が眠っています。

そのどれもに共通しているのは、「国の安かれ」という思いがある事です。

家康公が熱心な念仏者であったのも、家康公は平和主義であったからだそうです。

今日の平和があるのも、こうした偉大な方々の支えがあって成り立っているのだと

我々はが何かの犠牲の上に成り立っているのだと改めて学びました。

今回の企画をしてくださいました、神道の皆様、浄土宗の皆様誠にありがとうございました。

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