弊害があるからこそ生まれる?
寒緋桜の蕾が膨らんできました。
気をつけなければいけないのは、この寒緋桜の花ビラは完全には開ききりません。
従って満開を楽しみにしているうちにポトポトと落ちだしてしまうので注意しましょう。
さて、自分が行く道を妨げようとする障害物はなるべく避けたいですよね?
しかし、実はその障害物があるからこそ、自分の辿るべき正しい道が生まれているのです。
金田一少年の事件簿という本の中に「空白補完効果」という言葉が出てきたのですが
例えば、音をわざと途切れ途切れにすると聞き取れないですが、他の雑音を重ねると
聞き取れやすいのです。
その途切れた部分を雑音が補完することにより、人の想像力が働き、音が感受できるのですね。
ということは、我々の道を妨げようとする障害物は、ある意味非常に大切な存在なのではないか?
と言う決着になるのです。
正しい道というのも、ある意味「悪い手本」が存在するからこそ生まれるのです。
でなければ、「正」もボヤケて感じにくく、わかりにくいですからね。
そして、もともとこの世は「善悪」など存在しない虚空の世界ですから、
起きた現象現象をそれぞれ法(真理)に照らして検証して、これは「善」「悪」と区別していき
「一番最適な」正しい道が作られて行くのです。
では、何が「善くて」「悪い」のか?その道標が「十善戒」となるのでしょう。
お読みしても、中々守る事は出来ませんが、「あーこれは悪いことなんだなぁ」と
心の何処か片隅にあれば、いつかとどまることが出来るのです。
みなさんは「悪い」と知っていて「悪い」ことをすることと、「悪い」と知らずに「悪い」ことをすることは
どちらがより悪いと思いますか?
大方は「知っていてする方」が悪いと思いになると思いますが、仏教では
悪いと「知らずに」する方が「より」悪いとするのです。
その訳は、先ほど申しましたように、悪いと知っていれば、いつか「止まる」可能性があるからです。
知らない事ほど、恐ろしい事はありません。
よって、自分の道にある程度弊害がある方が、たどりやすいと言うことなのです。
美しい朝日も夕日も、塵に陽光が反射して、美しい光を放つのです。
つまりは塵がなければ美しい夕日や朝日は「無い」ということですね。
塵や悪は無用と切り捨ててしまえばそれまでですが、それでは自身の道もボヤける事になります。
その存在があるからこそ、正しい道や美しい光が生まれる事は忘れない様にしたいものです。