住職の日記

好き嫌い(感情)で善悪は判断してはならない

好き嫌い(感情)で善悪は判断してはならない

ご近所さんに空豆を頂きました。

この時期のご馳走と言えばこれですね。

茹でるのも良いですが、房ごと焼いて頂くのもgoodです。

さて、我々は「こうでなければならない」「こうあるべきだ」などと、心を縛り付け

がんじがらめにしてしまい、その結果視野を狭くしているのです。

視野が狭くなれば、不安や妄執に駆られ、自分だけならまだしも、他人に

「こうであるべき」だと攻撃的になり…と良い事は殆どありません。

従って、心に絡まっている妄執の縄を、まず解かなければなりません。

その紐解きに有効なのが仏法となるのです。

解き放つと言っても魂をむき出しにするということではなく、元の住まいに返してあげる事なのです。

その元の住まいというのが、阿字の古里(仏の世界)であります。

その無分別の世界に、浸りきることにより、それぞれ存在していた自と他と隔たりが無くなっていき

一体となっていくのです。

どっちが「善か悪」か「優か劣」かそうした、正解はその世界には無いのです。

ただ、我々人間には「好き・嫌い」があるのです。

それは仕方ありません。

それを捻じ曲げて、自分にこれを好きになれと言っても、それは無理をさせることになるので

体が持たず、心身ともに壊れていくのです。

従って、好きな道を歩むことが大切になるのです。

それぞれが、それぞれの道を歩んでいて、「あぁ素敵だなぁ」と思うこともあれば

「解せないな」と不快に思うこともあるでしょう。

でも、それでいいのです。

自分にはドンズバでなくても、その存在が誰かの為に役立っているのですから。

そこで、自分の信ずる事をこうだと押し付け、他人をどうこうしようとすることは

一番不味い行いでしょう。

そうした行いをしないためにも、本来は善も悪も、優も劣も無い本来無一物の世界なんだという

自覚が必要になるのです。

我々の好き嫌いの感情は人である以上無くなりません。

また、それも個性でもあるのです。

ただ、あいつ嫌いと思っても、自身もすべての人に好かれる事は無い、つまり完璧な人は

存在しないので、自身を棚に上げ、他を是正することは愚かなことなのです。

好き嫌いで善悪を判断するのは大変な間違いであるのです。

その為にも、仏法に帰依し、こだわらない、偏らない、虚空の世界を遊覧しましょう。

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