好きから始める?出来る事から始める?
田んぼ道にセイタカワダチソウが咲いてました。
ススキとのコントラストです。
犬の散歩中楽しんでいました。
さて、我々人間が生きていく上でよく迷うのは大体二通りで、
「自分のしたいことがわからない」と「自分のしたい事が理解されない」です。
まず、前者の方で、「自分」のしたい事が特にない場合、無理して自分のやりたい事をひねりだそうとすると
苦しみが生まれてしまい、そして、揚句には自分は何者なんだと、自分を探し出したりしまいます。
前提で、この「空」の世界で「自分」含めを全ての物に実体は無いのです。
そんな「自分の」を追い求める事は、影と鬼ごっこしているようなものです。
では、どうすればいいか。
それは、徹底的に「空じる」事が大切になります。
自分という存在を、生きながらにして、仏の世界に解放してあげるのです。
そうすれば、自分も他人もない、一つの世界の中にいるんだと自覚することが出来
その中で自分が他の人の為に何が出来るのか?または何をすべきか?と自ずと湧いてくるのです。
それが、いわば天命でもあり、その人の持つ特性でもあるのです。
そして、そこで初めて無常の世界に自分という存在が確立されるのです。
続いて後者の方ですが、我々人間には感情があり「好き・嫌い」があります。
空じて、自分の出来る事をコツコツと行う事も大切ですが、それで好きになればいいですが
好きになれなければ、継続もまた難しいのも事実であります。
従って、我々の好み、こだわり、流儀等々、それらはとても大切な要素でもあるのです。
よって、スタートが好きとか、これがやりたいと、はっきりしている場合、如何にそれが人に理解されるかが、
大切になります。特に仕事において。
利益なんかいらないという状態であれば、法に触れなければもう何してもいいわけですが
生活がかかれば、自分を認めてくれる人がいなければ成り立ちません。
自分の好きな事をやる事は継続していく上で必要な要素ではありますが
その自分のこだわりをどこまで、人に伝えられて理解されるかが大切になります。
自分の「好き」から始めても、組織や店を維持して行く為には、ある程度の大衆を相手にしなければ
結局額が狭すぎて苦しいという事になるのです。
昔インドで仏教が衰退したのも、仏教がどちらかというと、王族や商人などと言ったごく一部の人々
にしか支持を得ていなかった為、現世利益を願うヒンドゥー教に基層信仰を取られてしまい
一気に衰退してしまいました。
また、こうして今日本にはたくさんの真言宗寺院があるのですが、真言宗というと三密(言葉と行動と心を仏の様に整える事)
道場ですが、それでは中々民衆にはハードルが高すぎて難しく、仏門を諦めてしまいそうなところ
興教大師覚鑁上人が一密成仏(言葉、行動、心のいずれか一つを整えさえすれば、残りの二つは御仏の不思議な働きによって後々整ってくる)
という教えを掲げ、それによっていわばハードルを少し下げ、民衆の理解を得て今日の寺院が保たれているのです。
どんな素晴らしい物でも、教えでもそれを理解をしてくれる相手があって初めて存在するのです。
先程も申しましたが、この世は空で実体が無いので、認識しかないのです。
その為には、自分のこだわりを持つことも大切ですが、徹底的に空じて周りを観る事も大切になるのです。
よって「こだわる」と「こだわらない」のそのどちらにも執着せず、尚且つその二つが混じる場所が
我々が目指す場所なのでしょう。
それは、真ん中で線を引っ張って、「ここが正解です」という事ではなく、その線引きは人それぞれで
自分がどの辺がしっくりするのかは、その人しかわからないのです。