竹藪から太陽の光が差し込んでます。
太陽の光は凄いです、こんな鬱蒼とした藪も
素晴らしい風景にします。
仏の慈しむ光は全ての命を生かす光です。
全てですから、善悪別け隔て無くです。
そもそも、この世に存在する善い物と悪い物は、自分という本来ありもしない存在の
識がそう仕分けしているのであって、本来善も悪も無いのです。
誰かに取って善い物が、悪かったり、その反対もそうですね。
…ですから、こだわりを減らせば幸福を感じやすくなるということですね。
こだわればこだわるだけ、自分に取って都合が悪いものが周りに広がりますから。
こだわりを捨てれば捨てるだけ、心は広くなるのです。
が、人には感情があり、好き嫌いがあります。
別に興味の無いものは、こだわりをどんどん捨てれますが
好きなもの、大切な物に関しては、捨て切れません。
これは執着に当たると思いますが、密教はそれを完全に否定しません。
否定しないどころか、力の持って行く方向次第では、これは菩提心となるからです。
そして、その大事な見極めは自分以外の誰かの喜びに貢献しているか?であります。
利己的なものにどれだけ執着しても、花は咲きません。
花は観手に咲くというように、それを認識をしてくれる相手がいるのです。
ですから、物事の起こりが利他的な要素がなければなりません。
こうして、言い換えれば「こだわり」と言うものが無ければ、何も生み出されないのが現状です。
例えば、美しい庭も、こだわりをなくし、草ボーボーしていれば、型なしです。
美しい庭は人のこだわりがあってこそ生み出されていると言っても過言でもありません。
そして、それを認識してくれる自分以外の誰かがいなければ、おそらく継続できません。
一方ではこだわりを無くせ、一方ではこだわりが美しい物を創造するという
二律背反することかもしれませんが、これは仏教でいう自利利他だと思います。
自分の利と他人の利が満たされる事が大切ということです。
冒頭でも申しましたように、慈光は全ての存在に降り注いでいます。
利己的なこだわりを出来るだけ捨てて、利他的なこだわりを持つことで
美しい花を咲かすことができるのです。