住職の日記

善い時も悪い時も

善い時も悪い時も

寒い中石楠花の蕾がじっと耐えてます。

どんなに辛い状況でも、諦めず方便を続ける姿は正に仏です。

私たちは自動思考してしまいがちです。

何か状況が悪くなれば「どうせ自分にできない」「やっても意味ない」等と、止める理由を見つけ

良い時は「これで良し、これ以上やる必要なし」と慢心しこれまたやめる理由を見つけ

方便を止める事が多々あります。

しかし、この世の真理もそうですし、我々の正体も極微まで分解していけば方便だけが残るのです。

方便こそこの世のすべてです。

しかし、我々人間はその方便とは違う、「止まる」が心の底から好きなんですよね。

「この人とずっと居たい」「今がこのまま続きますように」「現状維持」等と言った事が

真の願いです。

勿論、そういった事を思う事は悪くはないかもしれませんが、「無常」を忘れてまたはそれすら知らないで

そうした思いを持つのだったら危険です。

何故なら、この世に存在する真理以外の物は必ず変わっていくからです。

人も物もお金も全ての物は、常に変わっていき、一分一秒確実に滅亡に向かっているのです。

「そんな、残酷だ」「悲しい」と思われるかもしれませんが、そこから熱い命の鼓動

真の幸せの時間が生まれるのです。

この世は虚空の世界で、その名の通り、全て空っぽなのです。

これを聞くと益々虚しくなってきますが、だからこそ先程言いました本当の幸福が生まれるのです。

どんな人でも確実に老病死を免れません。

これはこの世の理です。

しかし、だからこそ、「今」がとても大切な事に気付くのです。

我々は時に「幸せになる為に生きている」と錯覚致しますが、それはまるで夢の中で生きていると

一緒なのです。

目覚めているのに目覚めてない状態です。

何かを得れば、「幸せになる」という夢の中で生活しているのです。

その何かを支えに生きていく事は、モティベーションとしてはいいかもしれませんが

先程申しましたように、それは無常の風にかき消されるという事です。

人でもお金でも物でもそれさえあればと、真理以外の存在にもたれかかる事は

不安定で仕方ありません。

そんなグラグラしたものにもたれかかれば、当然心もグラグラ、そして心と言葉と行動は

連結してますので、自分の魂のメディアである言葉と行動が、穏やかな物でなくなってしまいます。

そうすれば、何かしら不具合が生じてしまうのは、当然なのです。

勿論、それらの物を無下にしろということではなく、その逆で無常を自覚する事によって

本当の意味で大切に出来るのです。

言い換えれば、真理を拠り所として無常を自覚をしなければ、人や物やお金を大切にすることなんてできないのです。

それらを拠り所とすれば、何回も申してますが、それらは確実に変化して行きますので

こういっちゃなんですが、それらがいい時はいいですが、もし悪くなったとき、それらを大切にしていられるのでしょうか?

「お金が全てだ」と大事に抱えていて、ある日国が破たんして、それが紙切れになったら

それを大事にしますか?って事です。

大方「ふざけんな!!」って捨てますでしょ。

じゃあ「全て」という思いは何だったの?となりますよね。

正に夢想です。

それが、真理を拠り所としている者であれば、時代がどんな状態になろうと

何一つ真実は変わりませんから、姿や形は変わっても、その時代時代で穏やかに生きて行けるのです。

従って、空じて自身を微細に砕き、生きながらにして虚空に戻りましょう。

そうすれば、何すべきか、何が出来るのかが生まれて来ます。

後はそれを究竟とすれば、時代がどう揺れ動いても波に乗って

穏やかに生きて行け、方便を究竟と出来るのです。

その姿は疑いの余地なく仏なのです。

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