住職の日記

何も出来ないわけではない

何も出来ないわけではない

においワビスケが咲き出しました。

春はいろんな花で境内が彩られます。

さて、「大切なことは当たり前になっているので感じにくい」と言います。

例えば空気、これに分かりやすく色がついていたら、とんでもない事になります。

いろんな人の体内から出てきた空気が、部屋に充満してそれを共有するとなると、

とてもじゃないですが、息できません。

そんなふうだったら、人と関わることが嫌になるんじゃないでしょうか?

ですが、空気がなければ我々は生きていけません。

ですから、透明になっていて「当たり前」になっているのです。

従って、我々は知らず知らずのうちに「生かされている」のです。

そして、この空気の正体は言うまでもなく大日如来様なのです。

大日如来様というと、お仏壇の中に厳かに祀られていて、曼荼羅でも中央に描かれていて

とっても偉い方と思われると思いますが、しかし、所謂「ただのお偉いさん」とは違うのです。

確かに、大日如来様は彫刻したり、絵に描いたら「そこにも」確かに存在しますが

その存在は微細になっていて、宇宙に、もちろん我々の周りにも、遍満しているのです。

つまり、真言宗の根本仏の大日如来様は、何の見返りもなく我々を生かしてくださる

実は世界の一番「底」で我々を支えてくれているお方なのです。

だから、我々は日々生かされる事に感謝をしなければならないのです。

感謝とは懴悔(さんげ)とワンセットと以前申しましたが、我々が生きていられるのは

こうした大日如来様のお陰であるという、事を知らなければ「出来ません」。

ですから、実は生きていられるだけで、幸せなのです。

ですが、現実にはそうした当たり前の事は、忘れやすいので、我々はもっともっとと欲を膨らまし

真理に外れたことに向かって行くのです。

不幸は忘却から始まるのです。

もともと、すでに幸せなのに、そうした欲が惑わすのですね。

それを忘れないようにする為に、また最終的な目標の為に大日尊を根本仏として仰ぐのでしょう。

我々は実績や経験を積めば積む程、確固たる自分と言う存在が生じやすくなるのです。

自分を拠り所とすることは大切ですが、それは「自分」という存在ではなく

法を拠り所として、努力している自分で法に通じていなければなりません。

「自分」という物は無常の風に晒されて日々風化していくのです。

大日尊が表しているのは、この世で一番尊い存在は、利他を極めた存在なのです。

実現は本当に難しいと思いますが。

であるならば、昨日申しましたように、そのある程度の利他行は大日尊に託して

我々は利他行だけでなく自利行も全うすることが、大切ではないでしょうか?

我々は自身を極微に砕いて、酸素や水になることは不可能です。

利他行を突き詰めていけば、それぐらいのレベルになるのですから。

大日尊を目指すと言っても、その道のとどののつまりは、直ぐに見えてきます。

ですから、日々大日尊を仰ぎ、その圧倒的な謙虚の姿を目にすることにより、その畏敬の念から

謙虚さを身につけ生きていくことが出来るのです。

例え大日如来や弘法大師の様に、自身の存在を砕き宙に舞うことは中々出来ないかもしれませんが

何も出来ないわけではありません。

できる事、すべき事、そしてその中でしたいことを見つけ、自身の道を辿ることが目標なのです。

その姿は、実は大日如来なのです。

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