住職の日記

仏法は翼

仏法は翼

ツバメが大きくなり、巣がいっぱいになりました。

巣立つ日も近いようです。

さて、何を始めるにしても何でも最初はあり、無知から始まります。

従って最初は愚直なまでに、真似することが大切になるのです。

「こうすると良いよ」と師匠なり、先生なりが言えば「その通り」してみる。

ここで「僕はこう思います」となれば、わざわざお稽古つけてもらう必要はないので

さっさとやめて自分で好きなことをすれば良いのです。

「守・破・離」とありますが、まず最初にそうした基礎を「守」ることが大切になるのです。

何故なら次の「破」は破る型があって初めて「型破り」なわけで、基礎は大事なのです。

ですが、基礎と言うのは、大切な事ですが、それが必ずしも「楽しい」「好き」という

感情には直結しにくいのも事実で、自分の好きなこと等は「真理」とか「基礎」の

対にある存在と言っても良いのです。

ですが、この視点も大切で何かを継続させていく為に、またこうした時代には

非常に必要なことなのです。

しかし、こうした「好きなこと」など自我を優先させた場合色々と大変ですね。

自分のわがままを承諾してくれる、理解者はどれだけいるの?ということです。

また、個性を本当に活かすには、個性は周りを輝かす事によって、初めて光るもので

それはつまり、様々な個性と共存して尽くし合っている、一つの生命なんだという謙虚な自覚

が必要になるのです。

そうした自覚が無いと、分離せざるおえないので、せっかくの個性も活きないのです。

よく「毒舌漫談」ってありますが、この漫談に成立するのは、演者側に「不悪口」という自覚が

なければ成り立ちません。

つまり、「悪口は悪いことなんだ」という自覚があれば、加減をできて毒舌漫談に留まらせれるのです。

これを毒舌だけを真似て、悪口を言えば良いとなると、それはとんでもない間違いで

即刻嫌われ者になるだけです。

「不悪口」という自戒の念がなければ加減が出来ずに「それを言ってしまえば終いよ」ということを

サラリと言うことになるのです。

それでは漫談として成立しませんよね?

基礎が大事なのはそういうことです。

(※自覚があれば悪口を言っていいということではありません、悪口は極力言わないほうが良いです)

どんなに勉強が出来ても、人の命を何とも思わなければ、意味は無いですよね?

今、そうした事件が多いのは心の基礎がおざなりになっているからです。

では、心の基礎って何?と言うと、仏法に外ならないのです。

仏教というと、法事などの仏事の手段の様に思われていますが、もちろんそれを通じて学ぶことは

たくさんありますが、人が持つべき心の礎なのです。

仏つまり「真理を悟った方」の教えですので、その真理は永久不滅の存在であるのです。

神だ超人だ仙人だと言ったところで、無常の鬼の前ではどうにもならないわけで

真理を悟った教えに携わる事が賢明と言えましょう。

大きく羽ばたきたいのなら「仏法」で、仏法=翼ということでしょう。

いずれにしても、ツバメは無事に巣立って欲しいです。

その為にはしっかりと飛び方を学んでほしいですね。

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