住職の日記

人間だもの 人間けだもの 人間くだもの

トイレの前の乙女椿が咲き出しました。

花言葉は「控えめな美」「控えめな愛」だそうです。

この花、千重(せんえ)咲きといって、花びらが何枚も重なっていて

中のしべがあるのかないのかわかりませんが、見えないので

そんな様子が控えめという印象に捉えられたのでしょうか?

しかし、全然控えめではなく、綺麗な花です。

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そして、時が来ればこうしてポトリと抗うことなく落ちていきます。

これだけの美しい美貌を持っているなら、もうちょっとこの世に居たいと未練を

残してもいいと思うのですが…私なんかはそんな風に思ってしまいますね。

しかし、そんな美しさにも執着を残さず、自身の命を尽くし、劇的に最後を迎えるのです。

こんな劇的な最後を迎えるので、椿は見舞いの花にはタブーとされています。

ただ、我々は「生」「死」を別々にして考えがちですが、生死一如と言うように

本来一緒に考えなければ行けません。

でも、ずっと死を考えながら生きることも、不可能です。

とても、生きられたものではありません。

ですから、その生死に囚われないくらい、何かの行為に打ち込むかですね。

そして、その行為とは好きなことです。

好きなことの為なら、あまり報われなくても、その行為をし続けられますからね。

当然嫌なことは継続できません。

しかし、この我々が住む苦海で、好きなことだけをし続けることも当然不可能に近いです。

ですから、自分の好きなことでは無いけれども、「これならやれるぞ」と見つける事が大切ですね。

そして、案外それが自分の天職になったりするかもしれません。

我々の普段の仕事は仏教で言うと「利他行」に当たると思うのですが

字の如く、他人の利益に施しをすることですね。

つまり、自分以外の誰かの喜びや利益に貢献するということです。

ですから、ある意味ここに自分の意志はあんま関係ありません。

先日、銀行に行って待ち時間に読んだ雑誌のに「みうらじゅん」さんのコラムが

あって、面白い文章が書かれていました。

「人間けだもの 人間くだもの」

「人間は欲に満ちた獣であり 人はそれに供物(くだもの)になれるか」

とありました。

どうしてそう思ったのかというと、ある居酒屋でトイレに入って

相田みつをさんの「人間だもの」という詩をじっと見ていて

「人間だもの」に「け」を付けたら「けだもの」「く」をつけたら「くだもの」に

なったからだそうです。

面白い発想されるなぁと思い、思わず笑ってしまいそうでしたが本当にそうですね。

先ほど申しましたように、我々は誰かの喜びに貢献して初めて仕事が成り立ちます。

ですから、我々はある意味くだものにならなければならないのです。

しかし、自分の意志を無視続けることも、また難しいですね。体と心が壊れます。

ですから、自分は何の「くだもの」になりたいか?ってことでしょうね。

自分の好きな事をすることは大切ですが、誰からも認められず、必要とされないことも

また継続は難しいですよね。

ですから、利他的な行いの中で、自分の好きなことこそ、自分と他人の欲求が入り混じった

中道となると思うのです。

その道を邁進して、究境とすれば、生老病死などの無常の鬼も及ばぬ、不退の地となるのでしょう。

そして、気づいたら、この椿の花の様にポトリと潔く…何てことは難しいかもしれませんが

でも他にどうやったら、この生老病死のこの現実を超えられるのでしょうか?

…まぁとりあえず人は「けだもの」であり、「くだもの」であるのです。

ですから、何のくだものになりたいか?つまり、何の道ならこの身を捧げて、見返りなくても後悔

無いか?でしょうね。

見返りが求められず、苛ついている姿は、美しくは無いですね。

だからこそ、自分の好きなことです。

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