住職の日記

不自由の中に本当の自分が…

不自由の中に本当の自分が…

今、巷で噂のsimフリー携帯にしました。

simフリーとはキャリアメーカー(docomoやauなど)に属さない携帯の事です。

まず何と言っても安さが目に付きます。

私の契約したプランは使った分だけ(10Ḡが限度で)課金されると言うもので

その名の通り使った分だけお金がかかるというものです。

今までのキャリアの携帯での契約は、「パケホ」といい使っても、使わなくても一定の金額を

支払うというものでした。しかし、便利が故に必要以上に携帯にかじりつくという事が多かったように思います。

ですが、このプランなら携帯回線に繋げて情報を取得すると、課金されると思うと

必要以上な情報を取ることを制御できると思います。必然的に。

そして、こうしたシムフリー携帯を持って気づいたことは本来情報取得という物は

「今」自分が生きる上で必要な情報を取得するというものだったという基本的な事です。

しかし、案外忘れかけていることかもしれませんね。

sim「フリー」なのですが、フリーな割に律され正されている自分がいます。

そして、その不自由さの中に大切な何かがあるのだと気付かされます。

まぁ、思ったよりも繋がりもよく、そして何よりも安い。

もちろんキャリアの携帯の方がいいところもあるでしょうが(通話など)、simロックフリーを

果たしたことによって、主体性(自分が本当に知りたい事)が生まれたように思いました。

ある種simフリーの一番の良さはここにあるのだと思います。

自由は不自由さは伴う、しかし不自由さの中に、本当の開放された自分もいるのですね。

さて、我々も生きていると「○○だからダメ」「私は○○だからできない」とsimロックを

かけることが多いと思いますが、それは本当に自分の意志では無い様に思います。

道徳や常識というある一部の権力者によって作られた、物に自身が操られているのです。

そうした、○○だからと自動思考して主体性を奪われて、ありもしない物に手足を縛られているのです。

我々は本来従わなくてはいけないのは、仏の教えであります。

「みんながやっているから自分も」では本当の幸せ(悟り)には辿りつけないでしょう。

すべての人の心のロックがフリーになった時、この世は迷いの無い不退の地となるのでしょう。

simカードがついてたカード。

……まだまだ、これが本当のフリーではないようです。

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