住職の日記

グローバルの波も及ばない

グローバルの波も及ばない

ハマボウが咲き出しました。

この花が咲くと夏が来たなぁと感じます。

さて、例えば皆さんの土地に「牛を食べてはいけない」という土着的な宗教があったとします。

しかし、天災や危機に見舞われて、食料が乏しくなってしまったとします。

目の前にある食料といえば、牛しか居ない。

そんな時に、他所から「牛は食べてもいいんだよ」という教えの宗教が伝わってきたとします。

そこで、土着の神様と今来た神様とどちらに従うべきなのか?

当然、そうした究極な状況であれま、後者の神様を選ぶはずです。

古くから伝わる「食わしてくれない神様」と、今来た「食わしてくれる神様」とでは

そうした状況では比べ物になりませんね。

しかし、「我々が生きていくためには食べても良い」という食べ物(命)は本来存在しないのです。

確かに我々は生きていくためには、他の命を奪わなければなりません。

従って、その食べ物に対して懺悔をして、感謝の念を抱くのです。

「食べても良い」という教えに感謝をするのでは、命を奪われる側に対しての懺悔の念が

感じられず、「生きていくためには良い」と無慈悲に命を奪うことになるのです。

それが、エスカレートしていけば、「自分の都合によっては命は奪っても良い」となり

争いが絶えなくなるのです。しかも自覚無しでです。

さて、そんな昨今、我々は個性を出さなければならないと言われています。

確かに多様化される社会で、選ばれるためには個性を出さなければなりません。

しかし、個性を出せば当然嫌われる事もありますし、リスクも伴います。

ただ、こうしたグローバル化していく中で、「町の発展」「みんなで協力しあう商店街」と言った

理想を思い描いていても、現実的な問題にぶち当たるのです。

つまり、「食わしてくれる神様」と「食わしてくれない神様」であります。

どうしたって生き延びるためには個性を出さざるを得ないでしょう。

しかし、こうした資本主義の社会では全ては価値と価値のトレードであり、契約社会であります。

つまり、自分のお眼鏡にかなわなければ価値のない存在と認識されて、排他的な社会とも言えますね。

それは、殺伐とした社会になるでしょう。

しかし、これが資本主義社会の現実であるのです。

例えば、今日本のプロ野球選手がアメリカの大リーグに移籍することが多くなっているのですが

選手は個人の自由でありますし、それはそれでいいのですが

当然スター選手は日本のプロ野球からは消えてしまって、寂しくなるのは事実であります。

そして、スポンサーまで手を引くのは当然で、テレビ放映が少なくなり、疲弊していきますよね?

しかし、それだけにはとどまらず、強豪リーグは日本のスポンサーまで選手と一緒に集めてしまうのです。

日本の選手が大リーグの試合に出ると、たまにバックネットなどに日本企業の看板が出ている事があるのです。

華やかな世界で、日本人選手が活躍する姿は魅力であるのは確かですからね。

これがグローバル社会の現実であるのです。

我々がそんなグローバル社会で生き延びる手段は極端に言うと2つ。

一つは個性を出して、自身がグローバルに動いて行く。

もう一つは皆で協力しあって、しなやかな個性のある集団や町を作ることであります。

例えば、今年長野の善光寺さんのご開帳が行われましたが、参詣者数はなんと700万人!

全国いや、全世界から、善光寺さんへ参拝に行かれたのです。

ここで注目しなければならないのは、主催者は誰かってことです。

実は主催者は善光寺さんではなくて、善光寺奉賛会の方々なのです。

もちろん善光寺さんや行政もバックアップされていますが、奉賛会が主体なのです。

つまり、街全体で善光寺の阿弥陀様に帰依をすることによって、唯一無二の町になっているのです。

となると、グローバルの波も及びませんから、むしろそのグローバルの線を逆手に

全世界から人を集めるに至っているのです。

そして、いやらしいですけど、すごい経済効果ですよね。

そう思うと京都や奈良もそうですね。

もちろんその分規制や規律はあるでしょうが、個性を失いグローバルの波に飲まれるよりはいいでしょう。

また、サッカーでもスター選手に頼らず、サポーターと言って、地域に密着をしてファンと一緒に

チームを運営しているのです。

正にサンガであります。

つまり、仏法は食わしてれる教えでも、人を厳しく虐げる教えでもなく

「慈しむ」命を育む教えなのです。

従って、個性を全面に出して、グローバルに生きていくか、智慧を灯火として穏やかに

互いに生かし合いながら生きていくか?

極端に言うとそういう選択を迫られているに思うのです。

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