住職の日記

なんで心は満たされないのか?

なんで心は満たされないのか?

カンヒサクラの花がかなり開いてきました。

かなり開きましたと言うより、これ開花ですね。

これが寒緋桜の特徴です。

さて、お金や物は豊かな生活を送る為には必要ですが、それだけでは不十分です。

皆さんの周りにもおられるかもしれませんが、この人こんなに恵まれているのに

何でいつもカリカリしたり愚痴ばかり言ってんだろうという人おられると思いますが

心が充足しないと、そうなります。

では、どうして心の満足が得られないかと言うと、ずばり魂が錆びついているのです。

物質的な豊かさは、社会に出れば、価値と価値の交換で、相手の不足不満、に対して

サービスや品を与える事により、金銭が生まれ、それで満たされます。

これは重要な事で、大切にしなければなりません。

ですが、この行いが好きで好きで仕方ないのであればいいのですが

そうでなければ、心が壊れて行きます。

当たり前ですが、相手の為の行動と言うのは、自分の好き嫌いなんて関係ないのです。

しかし、我々人間には好き嫌いと言う感情があるので、それを無視しっぱなしだと

先程申した通り、心から崩れて行ってしまうのです。

それを防ぐために行をする事が大切になるのです。

行と言っても自分の好きな事と言った方が良いでしょう。

その好きな事をする事が大切になるのです。

ですが、その好きな事も自分ひとりだけ楽しむ為に行うのも大変難しいのも事実です。

だって、誰にも見てもらえない、認められない事ってそうそう続けて行けないでしょ。

人間相手があって初めて自分と言う存在が認識されて、また喜んでくれる人がいるから

自分の方便に生きがいを感じるのです。

従って、自分の好きな事を分かち合う人を見つける事が大切になるのです。

それが今は容易にネットで出来る時代でもあるのです。

例えば、普段は普通に働いているのですが、カレーが大好きな人だったら

普段食べ歩いているお店のカレーをブログなどで発信をして世の人に伝えるのです。

そうすると、そのお店に行こうか迷っていた人は参考になるし、お店は宣伝になるし

その自分の好きな行動を発信するだけで、多くの人が幸せになるのです。

これって自分の好きな事ですが喜ぶのが自分ひとりだけではないので

とても心が満たされると思いません?

そうすれば、普段の仕事も充実するし、もしかしたらカレー評論家として独立できるかもしれません。

普段お経を読み終わった後に「回向」というお経を読みます。

これは、法事や祈願、または普段の勤行でお経を読んだ功徳を、自分だけで留めず

世の中に廻すという意味なのです。

「何で勿体ないじゃん?」という理屈になるかもしれませんが、先程の話の様に

利己的な行動と言うのは続きません。

しかし、「廻向」をし世の中の為にという壮大な意味があれば、その勤行はとてつもなく尊い行いとなるのです。

そうすれば、自分の行っている事は意味があるのだと、心の充足が得られるのです。

自分の好きな事と言えど、それでさえ誰かの為になっていなければ継続は難しいのです。

継続できない理由は殆どの場合、利己的な行動であるからです。

このことがわかってないと、「やることやってんのに何で不幸なんだ」と迷いの森に

彷徨う事になるのです。

勿論この世は資本主義の世界でありますから、利他行が基本中の基本になります。

しかし、それだけでは心の充足は得られないのです。

自分の好きな事を発信したり、そういった会に属したり、自分の好きな事を見てもらう環境を作りましょう。

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