住職の日記

どんなに歴史があっても

どんなに歴史があっても

こんにちは。

今日もいい天気で気分は最高です。

気候がいいと自然と言葉も行動も穏やかになります。

さて、当山のお堂の前にはそれぞれ「大日如来」や「大師堂」など看板が付いてます。

ですが、これは五年前に付けたもので、それまでは無かったのです。

看板がなかった頃は納経場に座っていて、参拝者の方々から「ここは何番札所ですか?」とか「ここのお堂はどなたがお祀りされていますか?」など本当によく尋ねられたのです。

当時私は何でわからないんだろう?と不思議で仕方なかったのです。

でも、振り返ってみると、わからなくて当然です。

なぜなら何も書いてなかったのです。

それでは、仏教やお寺にに詳しい方でもわからないものです。

「伝わらない」「わかりにくい」って言うことは聞くまではその方々達には存在していなかったのです。

弘法様も、美仏の大日様もです。

まだ、聞いてくださる人はいいですが、そのまま帰られた方々は何をお参りしているかすらわからない状態だったのです。

完全にこちらの怠慢です。

こちらはわかっているもんだと決めつけて対応していたんですね。

ですが、看板を付けたところ、その後は殆ど尋ねられることはなくなりました。

ここで初めて、弘法様や大日さんなど存在したのですね。

この地蔵寺は天平年中つまり六百年代から存在していて、約千四百年程の歴史があると言われています。

ですが、いくら歴史があっても分かり難かったり、伝わっていなかったら残念ですが、歴史がいくらあっても存在すらしなくなるのです。

この世は「空」で全ての物に実態がありません。

ということは逆算すると「認識」しかないと言えます。

つまり、わかりにくくすることはその命を粗末にするということです。

これを自覚していればいいですが、もし無かったら重症です。

自分の愚行を自覚せず、景気や世の中の人のせいにしていては、恐ろしい事です。

基本人間はわからないものには興味はわきません。

それがどんなに歴史があっても、美味しくても、こだわっていてもです。

分かりやすくすることは、命を大切にするとも言えます。

私は危うく千四百年程の歴史があるお寺の存在を消すところでした。

やれやれ。

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