住職の日記

そのままでは

そのままでは

おはようございます。

今日は空がどんよりとして、肌寒いです。

それもそのはず、今日は「立冬」です。

今日から冬です。

いよいよ冬に突入ですね。

なんだかんだ11月ももうすでに7日。

早いですねー。

さて、自分や自分の大切な人がもし病を患ったら、病気を治したい!と思いますよね?

ですが、仏教ではこの世のすべて実態がなく、認識があるだけなのです。

ですから病を患うことや何かの不幸が=悪と決めつけることにより、それから逃れようとする事が苦しみになるのです。

実際、それから自身が脱却しなければならないのも事実です。

生老病死、諸行無常は世の常であります。

私たちがどんなに泣いても、わめいても、この現実は何ら変わりません。

ですので、自身が変化をしていかないといけないのです。

ですが「とらわれない」事が真理とは言え、何か不幸があった人に、「とらわれるな」「これは決して不幸ではない」と説いても、人は救えない。

救えないどころか、人を傷つけてしまいます。

なぜなら、我々は仏の性質を持っていても、実際まだ仏ではないからです。

そして、まだ自身の心にその素質があることすら知らない人もおられます。

殆どの人が仏道において、達者じゃないのです。

では、どうするか?

その悲しむ人に誰かが寄り添ってあげることです。

その人が、苦しんで苦しんで、時を過ごし、その真実にたどり着くまで寄り添うことです。

例えば、日本では人は亡くなると、すぐにあの世(仏の世界)に旅立つのではなく、49日後

つまり、忌明け法要を境に旅立つと言われています。

それまでの間、亡くなった方と遺族が悲しみを互いに癒しながら過ごし、愛する大切な人との別れを乗り越えるのです。

それが突然の別れであれば、そのショックは相当な物でしょう。

そこで、「とらわれるな」「この別れを苦しみと決めつけるな」と言っても、怒ることはあっても、癒されない事は間違いないです。

しかし、実際は先程申しました通り、自らが立ち直らなければならないのです。

その為に49日法要があるのだとも思えます。

その間に、親戚や兄弟やもちろん法要を行う僧侶など、七日七日ごとの法要を行い、皆で寄り添いこの現実を慰めあって、悲しみから立ち直るのではないでしょうか。

話は変わりますが日本に於いて、思い浮かぶ仏様は?と聞けば殆どの方が、「お地蔵さん」「観音さん」とお答えになるでしょう。

ですがこれらの方は仏さんではなく、正式には菩薩なのです。

悟りは開けるのに、我々人間全てを仏道に導くまでは悟りは絶対に開かない、と誓ったお方です。

我々に何か不幸があり、悲しみに暮れる我々に寄り添って、励ましてくださる尊い方です。

皆さんのご自宅の近くに、○○を癒す観音さん、お地蔵さんはおられますか?

例えば当山のような眼病や様々な病を癒すお地蔵さんや、雨を降らすお地蔵さん、田植え地蔵さんなんて方もおられるのです。

本当にピンポイントです。

背中の痒いところに手が届くような、そんなありがたいお方です。

本当に我々としては助かりますよね、こうして苦しんでいる我々にお地蔵さんが寄り添って頂けるのは、本当にありがたい事です。

ですが、どれもこれも仏教にはそんな御利益がある仏菩薩はおりません。

そうです、これは我々の人間の都合で出来あがったお地蔵さんです。

我々の願いと言うのは、仏教からしたら、「とらわれている、煩悩だ」と否定されてしまいそうですが

先程申しましたように、殆どの人が、仏道の達人では無いのです。

ですから、こうした仏教のスタンダードな教えだけでは、漏れなく救うことが出来なくなってしまいます。

そこで、密教の登場です。

密教は皆さんもご存じの通り、弘法大師空海様が唐より持ちかえり、日本に広めた教えです。

密教ではこうした人間の煩悩などを完全に否定しません。

蓮の花の様に、汚泥(煩悩)を栄養にし、そこから花(悟り)を咲かせることが出来るのです。

そして、密教には仏(如来)だけでなく、菩薩、明王、天と様々なお方がおられます。

これらは仏(大日如来)様が様々な姿に変化したお姿です。

多様性が生まれたので、我々のささいな願いにも、仏さんが臨機応変にお地蔵さんや、観音さんの菩薩の姿に変え寄り添ってくれます。

このように密教では仏さんが太陽の光のように漏れなく、我々を照らしてくださるのです。

元来の仏教が「とらわれるな」「煩悩だ」と言っても、我々からしたら、その教えだけではあまりにもストレートで、悟りどころか仏道すら断念してしまいかねません。

なぜなら、何度も言うようですが、そこまでの達人ではない、素質はあるが素人です。

そして、日本人は完全な仏教徒でもないのです、仏教に対して別にこだわりがないのです。

そこで、仏教が「元来の仏教がすべてだ」とこだわりを見せたら、それこそこだわっています。

しかし、こうして密教が広まったことによって、我々に寄り添ってくださる尊格がたくさん生まれ、教えも我々の心情を汲み、柔軟にし寄り添ったことによって、仏教は日本に浸透し身近な物となりました。

もし日本に密教が伝わっていなかったら、インド同様、仏教は衰退して、我々の生活はどのようになっていたかはわかりません。

こうして、日本には我々の傍に寄り添ってくださる仏菩薩がいて、仏道が励みやすい環境になったのです。

ですので、何でも「そのまま」でいい物はこの世には存在しないのです。

それはこの世が諸行無常であり、常に変化しているからです。

変化を受け入れられないのなら、衰退していくしかないのです。

山茶花の花が咲きました。

雨に濡れて綺麗です。

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