矛盾する世界で
近所の方から柿を頂きました。
季節の物はいいですよね。
さて、我々のいる世界は価値と価値の交換で成り立っています。
つまり、自分の行いや商いとの対価で、仕事が成り立っていて我々の生活があるのです。
この世は本来無所得の世界とは言え、片方では現実には資本主義の社会でもあるのです。
我々は、この二つの価値が矛盾する社会に身を置いているのです。
しかし、だからと言って対価ばかりを求めた行動をし続けるというのも、苦しい物です。
「報われよう」「支持されよう」と求めれば求めるほど苦しみが生み出されます。
そして、報われる為に「よし善い行いだ!」と善行の押し売りをしだします。
対価を求める善行というのは何とも不思議な言葉ですが、
当たり前ですが、目的を持った善行は、続きません。
何故ならほとんど報われないからです。
「そんな…夢がない」と思われるかもしれませんが、実際そんなもんです。
それで、「俺はこうしたのに、何でだよ?」と言い出して、もう続けられません。
従って、善行は善い行いをすること以外の目的をもっては、善いか悪いかではなく継続できません。
では、善い行いなんて意味ないじゃんとなりますが、そうではありません。
善行つまり、方便や手立てを究竟とすることにより、本来在るものだったものが無くなったり、
無いと思っていたものが新しく観えるのです。
つまり、行動その物を目的とすると言った境地に達すると自分とか他人とか
「これは○○であるべきだ」などと言ったつまらぬコダワリが無くなります。
そうすれば、今すべきことが自然と浮き彫りになるのです。
「俺はこうでありたい」と「我」の塔を立てるのは、お金にある程度余裕がある人が言う事で
生活が掛っているのに、そこに「我」も「俺の夢」も「俺の理想」もありません。
その夢に巻き込まれる周りの事も考えなくてはいけません。
そして、我というものがなくなると、例えば自分の行いに対して、心無い罵声を浴びせる人に遭遇した時も
自分のプライドが傷ついたとか、自信がなくなったと言った事で、いちいちそのことで深く悩まなくて済むのです。
勿論、そうかと甘んじて受け止める事も大切ですが、それ以上にさっさと次に行く事が大切なのです。
なんせ時間には限りがありますから、悩んでいたら貴重な時間を消費してしまいます。
「形無し」とも言われるかもしれませんが、恰好だけ良くてもジリ貧だったら意味ありません。
少なくとも私は嫌です。
現実問題先程も申しました通り、いくらこの世は無常、無所得の世界とは言え、資本主義の社会に変わりありません。
無常の世界で、お金や物を拠り所としてはならないのは当然ですが、お金や物はとても大事な物であるのです。
人間は霞喰っては生きていけませんからね。
この資本主義の社会を生きて行く為には対価は必要ですが、
ただ、それを求めれば求めるほど息苦しくなっていきます。
だからこそ、法に帰依し空じて自他との垣根を無くす事で、心に我ではない大事な塔が創造されるのです。
それを拠り所とすれば、この世界を迷うことなく生き抜く事が出来るのです。