熱いスープは冷ませば飲める
鴨が群れになって泳いでます。
今日はみぞれ交じりの雨が降りました。
寒いです。
さて、人はとらわれることにより苦しみが生まれます。
「かたよらない、こだわらない」本当にごもっともで大変素晴らしい言葉ですが、この言葉が人を癒すかといったらまた別です。
例えば最愛の方を亡くされた方に「こだわっているから苦しいんだよ」と真っ当な正論を言ったとします。
怒る人はいても、癒される人はまず存在しません。
病になってしまった方に「自我を離れなさい、こだわっているからだよ」と言ったらその方はかなり傷つきます。
様々な物に執着が働いていることにより、苦しみが生まれて、それを除くのは執着をなくさなければならないのも事実です。
しかし、仏教(顕教)ではそういった人間の煩悩を否定しますが、密教では完全には否定しません。
その人間のとらわれ、つまり煩悩の中にも素晴らしい部分があるととらえているのです。
最愛の人を思って、何が悪いのでしょうか?自分の体を大切に思って何が悪いのでしょうか?
これらは人間としての心情です。
逆になければ変です。
こうした密教は我々人間の心情に大変深く理解を示した教えなのです。
「熱いスープをすぐに飲め」と言われてもそうすぐには飲めません。
無理に飲み干そうとすれば、火傷を覆います。
ですが、少し冷ませば飲めます。
苦しみも時間をかけながら、少しずつ受け入れていけばいいのです。
観音菩薩や地蔵菩薩といった菩薩(仏になれるがあえて悟りを開かずに、全ての人間が仏道を志すまで我々に寄り添ってくれるありがたいお方)が各地域に存在しているのもうなずけます。
密教にはこうした様々な尊格が存在して、その地域の人々の切なる願いにお応えして、仏さんが姿を変え寄り添っているのです。
つまり仏様が菩薩に姿を変え、熱いスープを我々と一緒に冷ませてくれるのです。
仏さんは本気で我々を救おうとしているのです。
正論を説いても本当の意味で人は救えません。
だからこそ多様性、そして絶対に救うぞという強い思いが必要なのです。