住職の日記

無常を自覚することにより深まる

無常を自覚することにより深まる

葉が少なくなりました。

寂しくなってきましたね。

一度落ちた葉はもう二度と枝に還る事はありません。

無常の世の相であります。

そして、それは我々人間も例外ではありません。

そんな秋を寂しいと感じられる方も多いと思いますが、

それと同時に幸せであると感じやすい季節でもあります。

仏教を開かれたお釈迦様のお言葉に

人の世にいのちを受ける事は難く やがて死すべきものの、今いのちあるはあり難し

とあります。

我々は得難い一生を得ているのです。

しかし、この葉の様に誰もがいつかは散っていく定めであるのです。

という事は今を生きる事こそ、幸福以外の何物でもないのです。

無常であることにより、この世は苦しみの世界になるのですが

無常である事を自覚することにより、尊い物が何か気付く事が出来るのです。

無常と如何に向き合うかで、人生大きく変わっていきます。

無常というものを避ければ避けるほど、考えないでいればいるほど

生きる事がぼやけて来ます。

そうすると、どうなるかというと、いつまでも生きて行けるとか、無い物があるように錯覚していくのです。

そうしてまるで夢の中でぼんやり生きていると、ある日突然無常の鬼が目の前に現れてしまうのです。

そこで初めて、自覚しても遅いのです。

従って、人生の早い段階で何らかの苦しみ、例えば死とか病の苦しみを知るということは

その段階では大変つらい事ですが、人生を長い目で見れば、何が本当の幸せかはっきり自覚したまま

生きて行く事が出来るのです。

よく「病になったことのない友人とは付き合うな」と言います。

苦労を知らないという事は何が幸せなのか、ぼやけているわけですから、納得です。

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とも言いますよね?

またこの世は苦に満ちた世界で、苦は避けられませんが

その苦をあるものと覚悟し、どのように向き合うかによって福を生み出すことが出来るのです。

この秋は、葉が枯れ落ちて行き、寂しい空気に包まれて行きますが、

それと同時に「今」が如何に幸せなのか、という事に気付きやすいとも言えます。

無常による、病気や老いや死などの苦しみは怖いから避けたい、考えないとしていても

それでは、生というものがぼやけて、正しく物事を捉えられていないので、

既に妄執による心の病にかかっているのです。

その病の自覚がないというのは、不幸その物です。

無常を自覚することにより、生が深まり、本当の幸福が浮き彫りにされていくのです。

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