正論はそうであっても…
裏庭の木々の新緑が、雨に濡れとても綺麗です。
雨もオツなものです。
さて、我々が穏やかに生きていくためには「ありのまま」を見つめていかなければなりません。
平たく言うと「苦」はあるもんだ、つまり自分の思い通りばかりに物事は運ばないということです。
それを理解できなければ、どうにもならないものをどうにかしようとするから苦しくなるのです。
しかし、理屈ではそうでも、「はい了解しました」と本当に納得するのでしょうか?
残念ながら、殆どの方が口ではそう言っても、腹に落ちている人なんていないと思います。
自分の大切の人を失っても、「はいそうですか」とすぐに納得できたら、逆に変ですよ。
「そうですか…」と表向きではしたとしても、人の見えないところで、何とかしようと
ジタバタしますでしょう。
真理がどうのこうのという理屈では、我々の真の願いは抑えられないのです。
ですが、当然それらは真理に外れている事でありますから、現実を受け入れなければ解決に向かいません
しかし、そうした我々の思いを仏様は認めて居られるのです。
仏様は慈悲心を宿しておられ、怒りとか恨みとかそうしてこだわりを超越し
すべての人を平等に、そしてすべての人の呻きを共感して下さるのです。
傷つき悲しんでいる我々をただ、否定することなく「うんうん」と何時間も、何日も寄り添ってくれて
「でも、進んでいくしかないんだよな」と納得するまで、菩薩という形に変え近くにいて下さるのです。
我々は正しい答えが目の前にあってもそうはならないのです。
よって、大切なのはそうした答えだけでなく、その道、過程にあるのです。
苦しみの解決の正しい道筋は、捨てなければならないものばかりです。
でも、それは言い換えればとても思いれがあり、大切な物でもあるのです。
すべての執着を離れた仏様はその辛い気持ちは重々承知しておられるので、
見捨てられることは無いのです。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と申しますが、立派な慈しむ心を養うためには
自身もそうした苦労の経験がなければなりません。
経験がなければ、気持ちがわからないからです。
わからないから、理解が出来ないので、そんなことは認められないのです。
お釈迦様がおっしゃられるように、この世は苦しみで満ちております。
しかし、それは同時に悟りへの道でもあるわけです。
多くの悲しみや苦しみを、時間がかかっても良いので乗り越え
慈しむ心を宿し、困っている人がいたらそばにいて、その呻きを共感して
あげれる人になりましょう。