住職の日記

松ぼっくりも人も一緒だなぁ

松ぼっくりも人も一緒だなぁ

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姪がたくさん公園で拾ってきました。

大収穫です。

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中でもこの松ぼっくり。

大きいです。

この松笠は面白い性質を持っていて、水に浸けるとひだが閉じて

乾燥させるとひだが開くそうです。

この性質を利用して、アメリカのある公園に生えている松は、山火事を利用して

種子の散布を行っているそうです。

山火事で急激な乾燥(と言うか炎に包まれて)種が撒き散らせれて

焼け野原に落ちた種が芽生え、また森が再生していくそうです。

そうでもしなければ、この種の松(コントルタマツ)の笠は開かないそうです。

従ってこの公園では、山火事は自然現象の一つと捉えられて、消火活動をしないそうです。

…今、日本は物やサービスは行き届いていて、情報もあふれるばかり流れていて「豊か」であるのですが

それが=必ずしも繁栄というものに繋がっていないから不思議に思います。

従って「楽」や「有る」から生まれる実りは少ないのかもしれませんね。

人の生きる力は、物やお金や名誉というものがありますが、それはそれでひとつのモティベーション

になるのでしょうが、無常の風が吹き荒れるこの世で、それだけが原動力となることは

難しいかもしれませんね。人は必ず老いていくので。

では、最後に何が我々の生の支えとなるかというと、どう考えても「道心(菩提心)」であります。

一言で言うと、お金や名誉がもらえなくても、やっていたいことです。

その「行い」が我々を救ってくれるセーフティネットとなると思うのです。

ですが、ありとあらゆる物が「有る」と盲信している我々はそれに気づきにくいのです。

無常の風は山火事の様に実際に焼きつくすわけではないので、わかりにくいですが

気づかないで実際それと同じような現象が起きているのです。

わかりやすく言えば、「物の価値」なんてそうですよね。

昔は物が有るということが豊かの象徴で、品さえ置いておけば商売が成り立っていたのですが

今はネットがあり、それらの価値を根こそぎ吸い上げられて、価値を著しく低下させているのです。

じゃあ残された人は何をするのか?もう「行為」しか無いということです。

テレビをネットで殆どの方が購入できるけど、すべての人がそれを正しく接続出来るわけでは無いのです。

便利ですが、こうした不便が生まれているのです。

それを「解消させる行為」は後は誰がするか?ってことですよね。

今は、もしかして豊かに見えるだけで、もしかしたら焼け野原の様に貧しいのかもしれません。

ですが、この菩提心を起こせたならば、道具や情報は周りに山程あるので、それを使って

花を咲かすことはできるかもしれません。

そういった意味で、菩提心を起こさなければ、物質的に豊かでも

ある意味焼け野原で生活していることになるのです。

皮肉かもしれませんが、我々が一番遠ざけたい「無常」の真理が、我々の生きる活力の菩提心の

発芽の要因になるのですね。

松ぼっくりにしても、人にしても、根本は一緒だなぁと思った次第であります。

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