小さくても凄いんです
菩薩とは仏(如来)が私たちを一人残らず救うために、親しみやすい菩薩の姿に変え我々に寄り添ってくださる尊い方です。
例えば当山の水掛地蔵尊。
こうして沢山の方に水を掛けられ、撫でられた事により顔がツルツルに磨滅してしまいました。
親しみやすいお地蔵さんだからこそ、皆が寄り添いやすいのです。
こちらは当山の大日如来坐像。
手前味噌ですが、中々の美しい姿です。
しかも坐像でありながら160㎝もあります。
美しく、大きい、そして真言宗の根本仏、様々な仏、菩薩、明王、天の総本山です。
しかし、こうした仏さまはあまりにも尊すぎて、親しみがわかないのです。
こうした仏の姿だけでは、民衆の心を癒すことが出来なくなるので、お地蔵さんや観音さんに姿を変え、我々に寄り添ってくださるのです。
密教の出現によって我々は仏の光に平等に照らされたというのは、菩薩、明王、天など尊格が多様になり、その人その人の願いに寄り添ってくださるのという事です。
信仰の対象が大日如来だけじゃなくなるという事です。
でも、大日さんからしたら少し寂しくないかなぁと思われる方もおられるかもしれませんが、心配なされないでください。
真言宗の教えに「一門即普門」という教えがあります。
真言宗の根本の仏さんは大日如来ですが、我々がお地蔵さんや観音さんなどの他の尊格を拝んでいても、観音さんでもお地蔵さんでも、大日如来様の変化されたお姿ですので
そのまま大日如来を拝んでいることになるという教えなのです。
ですから、大日さんは全然寂しくも他の菩薩や明王などの人気に嫉妬することは一切ありません。
また「拝むのは大日に限る」と言えばそのあまりにも尊い姿に人は仏道を断念してしまいます。
ですから様々な尊格の出現は仏さんの「我々を一人残らず救う!」という強い信念の表れなのです。
こうして我々は、様々な願いにも寄り添ってくださる、お地蔵さんや観音さんなどに寄り添い日々仏道修行をします。
そして、その姿は正に仏さんなのです。
当山のお地蔵さんは寄り添うどころか触れるので、正に「大菩薩」であります。
「大」とは姿ではなく、我々を受け入れる器の大きさのことを指します。
確かに160㎝もある大日如来さんよりも遥かに小さいですが、人々引き付ける求心力、懐の深さは仏の世界同様に広大無辺であります。