参加することに意義がある
サルスベリが赤くなってきました。
これ見ると紅茶が飲みたくなるなぁ。
さて、真言宗には三密修行を心がけるのですが、その三密とは「身・口・意」であります。
「身」は身体できる施し、「口」は言葉でできる施し、「意」は心を穏やかにして
仏の様な安らかな顔で施し、人に働きかけることを目標とするのです。
この教えは非常に優れていて、すべての人が修行に参加できるのです。
例えば、「身密」の場合ですが人は必ず老病の定めを受け、健康な肉体は削られていくのです。
従って、年月と共に徐々に身体できる修行は限られていくのです。
じゃあ、ついに身体が思うように動かず修行できなくなったら、もう終わりかというと
そうではなく、「口密」つまり言葉で施しをする修行ができるのです。
この「口密」は易行と言い、簡単に体力関係なく行えるのです。
ですが、功徳は厳しい山々を駆け巡る修行と同等であると思うのです。
何故なら簡単に行えるかもしれませんが、継続が必ずできるかというとそうではありません。
易行とて、継続することは容易では無いのです。
そして、言葉というものはこの世界に与える影響は凄まじく、
一言で世界が白にも黒にもなるぐらい変わるのです。
それぐらい需要なのです。
そして、最後「意密」ですが、遂に身体も言葉も思うようにならなくなっても
心のなかで一心に仏を念じ心を穏やかにする、これも凄い周りの人に安心を与える
尊い修行なのです。
このように、真言宗の教えは、生まれて死ぬまで、すべての衆生が尽くし合う世界に参加でき
修行し続けることができるのです。
修行というと荒行や苦行、ということが思い浮かばれやすいですが
難しい修行を成し遂げることは凄い事ですが、それが必ずしも=悟りではないのです。
例えば、若かりし頃大きな成功をしても、最終的には大きな失敗をしてしまう
ことはありますよね。
まぁ何かを成功させるのは凄い能力があり、誰もが真似はできませんが
能力がある、それが=悟りの人ではないのです。
この世は無常であり、人は確実に老病死に向かっているのです。
そこで、「できた」「わかった」「こんなもんだろう」となってしまっては
そうした無常による老病死に見舞われ、「昔はできたのに」と昔の自分に
執着し、中々その成功体験から脱却できず、苦が生じます。
苦が生じ、心が穏やかでなくなれば、言動、行動ともに穏やかではなくなるので
何かしら不具合が生じるのは容易に予想できます。
じゃあ、本当に悟りとは何か?と申しますのは、いかなる状況でも人に施すという
心を持っている状態であります。
人は生まれた時、つまり赤ん坊の時無垢な心を持っていて、誰にでも別け隔てなく
笑顔で施すことができます。
しかし、赤ん坊はそれ以外何もできません。
食べることも、服を着替えることも、できないのです。
ですが、心が清らかだから(意密)、そこから湧き上がる笑顔で、人々に力を与えるのです。
次第に、言葉を覚え、身体が大きくなっくると、活発にいろいろ行動できます(身密)。
…ですが若いから完璧かというと、やはり経験が浅いせいか、やや思いやりや優しさが
かけたり我が強かったりと、やや青さや痛さがあるのは否めません。
だから、身体が動くことは素晴らしいですが、それだけで完璧ということではないのです。
そこから、徐々に経験を積み、心身ともに成熟していきますが
そうした状態も長くは続かずいずれ肉体は老いていきます。
そこで、自身の行動から得た経験を後世に伝えていき(口密)、
そして、遂に身体も言葉も思いどりならなくなり、一念に仏を念じ周りに安心を与える(意密)。
このように、真言宗の三密の教えは、いかなる状況に置かれていても
尽くし合う世界に誰もが参加でき、もれなく救われる教えであるのです。
だから、参加することに意義があるのです。
それが、大きな行いだ、小さい行いだと差別せずに、自分のできる施しをすればいいのです。
自分のできることで、参加をして、施しの世界に冥合する。
この参加の一番の弊害となるのは、実は身体の健康や能力ではなく
「自我」、つまり自分なのです。
この行いは人よりも劣っていると決めつけ、自分のできることでもしない。
行えない理由はいつでも、自分に有るのです。
我々は「得たい」と言いますが、得るということは反対に何かを捨てるということです。
一番の荷物は、一番大切な自分だったりします、皮肉にも。
従って、妥協をしながら生きていかなければならないのです。
妥協は決して悪いことではないのです。
ただ、ツルッと自分を削いでも、生きていけませんけどね。
つまり、悟りの世界は「こうだ!」「ああだ!」ではなく、適当な妥協の世界なのです。
適当に妥協して、尽くしうことこそ、ゴールであるのです。
自然界に目を向けると、今の時期は四季桜の花や、褐色を帯びた葉が目につきますが
今を華やぐ四季桜の花も、哀愁ただよう枯れ葉もどちらも尊いです。
理由は、それぞれ与えられた命を燃やしている、ただそれだけです。