他で何で判断するの?
ご先祖様が帰ってきやすいように盆旗を建てました。
何事も分かり易くすることは大切ですよね。
どんな気持ちを持っていようと、どんな素晴らしい機能を持っていようと相手に伝わらなかったら
残念ですが「存在しない」のです。
それでも、気持ちは通じるよと言っても、本当にそうなんでしょうか?
この世は「空」で物事に実体がありません、ですが裏を返せば見た目が重要と言えます。
勿論見た目や形に囚われてはいけませんが、ではいったい特に初期段階において他の何で判断するのでしょうか?
残酷かもしれませんが、最初から中身で何かを判断してくれる人は、そうそういません。
昔、当山の御堂には看板がありませんでした。
すると、参拝者の方に「ここはどなたが居られるのですか?」との質問が本当に多かったのです。
「?ここは弘法さまですよ」と本当に私は不思議で仕方なかったのです。
しかし、よくよく思い返してみれば、それは当然の事です。
どこにも、看板一つありませんから。
荘厳はしっかりしてあっても、肝心の厨子に居られる方が誰だかさっぱりわからなければ、意味ないですよね?
勿体ありません。
勿体ないとは、命を無駄にしている事です。
ですから、これではいかんという事でお堂の前に「弘法大師」「大日如来」などと看板を付けたところ、そういったご意見はなくなりました。
木の板に、字を書いただけの看板ですが、そこではじめてそれぞれの尊格が参拝者に認識されたのです。
こういっちゃなんですが、特に大日如来様は鎌倉時代から当山に安置されているのです。
そこに確かに鎌倉時代より伝わる大日如来があるとしても、伝わらなかったら存在しないのです。
この無常の世界で、自分のしていることを継続させていきたいというのなら、伝える事をおろそかにしてはならないのです。
そして、その為には分かり易くすることが大切です。
誤解を招きたくないのであれば、何事も分かり易く伝えましょう。