仏の囀りを聞きたいのなら…
ソメイヨシノの花が咲き出しました。
これから楽しみですね。
さて、春になり様々な花が咲き出し光の量が多くなり境内がいつも以上に明るくなり、
そしてつばめが帰ってきて地蔵寺はいつも以上に穏やかな時が流れています。
自然のこうした現象は、御仏の働きかけによるものです。
心地の良い小鳥のさえずりも、風に揺られ奏でる木々の音も、美しい花もすべて
御仏による、我々への説法であります。
従って、すでに我々は仏の世界に出会っているのです。
しかし、片方では百千萬劫つまり、物凄く長い時間をかけても
中々出会えないのが仏の教えでもあるというのです。
すでに、目の前に仏の教えがあるのにそれに気づかないのは、何が弊害となっているのかというと
「我」以外にありません。
外的要因ではなく、すべて自分の内面に問題はあるのです。
仏の光は皆平等に降り注いでいるのですが、我々はそれを受信しなければなりません。
その受信機が埃(煩悩)にまみれていれば、その光を受信することは出ないのです。
従って、如何にその受信機を掃除する(心を磨く)かが大切になるのです。
そう思うと、せっせと煩悩を断ち切ろうとしますが、それは効率は悪く、また苦しいはずで
そうすれば周りも苦しみに巻き込まれてしまうので、善い道では無いのです。
では、如何にするのか、その煩悩をどこに向かわせるのかであります。
どこに向かわせると言うか、どういった行動動機と結わせるかであります。
我々の行動動機は、「〇〇の為」であるのですがこれが何の為かということが
重要になってくるのです。
これがもし「自分だけの為」だったらば、苦しみは増幅し下手したら煩悩が暴発する可能性もあります。
しかし、これが「皆の為」のものであれば、周りは喜び、心に積もった垢が
その熱い菩提心(求道心)によって浄化され、悪心は一掃されるのです。
そうすれば、受信機が正常に稼働し、仏の囀りを通訳を介さず受信できるのです。
この欲の使い方のちょっとの差で、結果は雲泥の差になるのです。
仏の光を少しでも長く享受したいのであれば、慈悲心を煩悩に結わせ
菩提心を起こしましょう。