住職の日記

それぞれが違うのだから…

それぞれが違うのだから…

約半年我々を楽しませてくれた四季桜の花が終焉を迎えています。

葉が落ち寂しくなっていった境内を、賑わしてくれました。

感謝の気持ちでいっぱいです。

さて、今はいろんな情報に何も介さずに直接アクセス出来る時代です。

大都会のど真ん中にいようと、田んぼに囲まれたど田舎にいても

最先端の情報に触れらるのです。

こうした情報が乏しかった時代は、権威ある人が「こうだ」と言ったらそれが常識になり

それに従わないと、変な目で見られたかもしれませんが、確かに一理あれど

それがすべての人に当てはまる答えにはならなくなったのです。

趣味趣向がこれだけ多様化している中で、「お前こうしろ」「ああしろ」と

人をどうにかして自分の都合によって動かそうとすることが難しくなりました。

今は昔と違い、ネットなどの環境で情報もすぐ取得でき、若くしても自身で何かを始める

事が容易になった時代で、「とりあえず時期を待つ」ということは少なくなっていき

意にかなわなければするりと目の前からいなくなることも、これからますます珍しくなくなるでしょう。

まぁ、堪え性が無いと言われてしまえばそれまでですが、それぐらい道はあちこちにあり

それくらい、手段はあるんだということです。

正に個の時代になったのです。

しかし、それに伴いリーダーと言うか中心人物に求められる要素もまた変わっているのは当然です。

先ほど申しました権威というものは、だんだん薄らいでいき、それによって統理することは

難しくなってきたのです。

では、どんな要素が求められるか。

それは、言わずともここ数日申しております「慈悲心」です。

慈悲心の大きさこそ、その人の器の大きさであり、それはそのまま組織の大きさでもあります。

慈悲心と言えば、仏様の心であり、すべての存在に対して怒りとか恨みとか、そうしたこだわり

なしに平等に接することが出来、そうした命を育む事が出来るのです。

つまり、我々は年齢や容姿などで判断したり、決めつけたりしてしまいますが

もちろん人間である以上仕方ないかも知れませんが、あまりにもそのこだわりを通すと

だんだんいろんな意味で貧しくなっていきます。

そうしたこだわりを持って接すると、その人の持っている特性までに視線が届かず

命を無駄に摘み取り、自身も多様性を失ってしまいます。

我々の命は一体でありますが、我々は唯一の存在で、それぞれが別でもあります。

つまり、それぞれが目指している道は違い、自分とまるっと一緒の人なんていないのです。

そうした、違いがあるのだから、どうして「こうしろ」言えば人が変わるのでしょうか?

その違いがあるんだと自覚しなければならないのです。

では、どの様にして集団を作っていくのかというと、違いを認める事なのです。

相手を認めて、その特性で貢献してもらえば良いのです。

なんでもそうですが、自身だけでできる事は規模は決まっています。

老病死に向かっていく体で、時間は24時間しかななく、そんな中すべての事をしようと

することが無理というものでしょう。

だから、出来ないことを補ってもらい、逆に自身もできる事で貢献するのです。

こうした集団は何の為にあるのかというと、生きていく為であり、それは自身のためでもあり

他のためでもあるのです。

その中で、他を否定して、自身だけを正当化することはご法度なのです。

いくら嫌いでも、その中で違うと思っておけばいいのですし、まだ良さに気づいてないだけかもしれません。

そんなことに囚われている事よりも、自身が少しでも人に役立つ人になれば良いのです。

集団は馴れ合いになるために群れているのではないのです。

ですから、これからの時代個人のを強く出す人が多くなってきますので

益々、慈悲心を宿す人が大きく豊かになりますね。

それぞれがそれぞれの道を目指しているので、互いに認め合い、時には影響し

補い合いながら、生きていきましょう。

いちばん上に戻る